嘆いている人と、その嘆いていること。
これは、一つの寓話として読んでいただければと思います。
参考にしているのは、中島義道『晩年のカント』(講談社現代新書)です。これは、面白い本ですね。何回も読み返しています。
さて、こんなことを嘆いている人を見かけました、ということにしておきましょう。
(1)この世の中は、真理を大切にする(愛する)人よりも、自分の保身を大切にする(愛する)人ばかりである。
(2)これは、堕落ではないだろうか。
(3)哲学者と称している人も、自分の保身を大切にする人ばかりで、真理を大切にする人は、どこにもいないようだ。
ということですが、ここでは方向性を変えてみて、たとえば、カントは『たんなる理性の限界内における宗教』で、「根本悪」というものを扱っているそうです。
この根本悪というのは、上に挙げた書物(『晩年のカント』)から、少し改変して引用すると、「具体的には、一方で、「真実を語れ」という理性の命令を聞きつつ(真実性の原理)、他方、有機体である人間の幸福を求めたいという欲望(幸福の原理)とのあいだで引き裂かれながら、結局は後者を取ってしまうという悪である。」とのことです。
さて、上の、真実性の原理と、幸福の原理が対立したときに、本来は、真実性の原理を優先し、その次に、幸福の原理を取るべきなのに、まったく反対のことをしてしまう。これが、根本悪です。
そして、この根本悪を、免れている人間は、実際のところ、ほとんどいないのではないでしょうか。
これは、(知を愛する人であるはずの)哲学者にかぎったことではありません。およそ、有史以来の人間で、誰一人として、この根本悪を免れている人間は、いないのかもしれないのです。
また、哲学者というのは、「知を愛する人」であるわけですから、「知」が何を意味するかということでもありますが、例えば、「自然学の知」とすると、特に道徳的に卓越している必要はないようにも思われますので、真実性の原理を優先させる人である必要もないのではないでしょうか。なお、「知」を「道徳形而上学の知」としてみても、そういった「知を愛する人」が、特に道徳的に卓越している必要もないように思われます。「愛する」という言葉が、その実践を含まないのであれば、そうなるでしょう。
さて、この「哲学者」ということですが、今度は、『純粋理性批判』の終わりの部分「超越論的方法論」から少し引用してみたいと思います。
ここでは、哲学者というのは、「理性のうちにしかひそんでいない原型」であって、哲学者と称することは、つまりは僭称である、ということを言っています。
有限な存在である人間は、哲学者にはなれないのです。
ですから、哲学者と称している人も、べつに哲学者ではないので、そういった人たちに、根本悪を免れて、真実性の原理を優先することを求める必要はありませんし、また、そういったことを期待する必要もありません。
この世界は、根本悪に満ちていて、真実性の原理はまったく打ち捨てられている。そういったものが、ひとまずは、現実なのでしょう。
そういった現実のなかで、どうやって生きていくのか。それを考える、ということです。ここから思考が始まる、ということなんだと思います。
(まとめとして追記:2024/8/12)
(1)カントのいう根本悪から、逃れられている人間は、有史以来、一人もいなかったのだから、真理を優先する人間が見当たらないのは、当たり前のことでもある。
(2)哲学者というものは、カントのいうところ(を私なりに理解すると)、一種の理念のようなものであり、到達し得ないものなのだから、この世界に哲学者が見当たらないのも、当たり前のことである。
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