「オッカムのかみそり」の適用には注意するべき
今回は、こんな記事を読んだ。
高校物理で習う力学はじつは全部ウソ!?…「この世のものは全部波である」というかなり「ぶっ飛んだ」式(田口 善弘) | 現代新書 | 講談社(1/2) (gendai.media)
すこし、引用してみる。
つまり、物体を斜めに投げ上げるとき、放物線を描くことになるが、
(1)高校物理では、重力の影響で、放物線を描く。
(2)量子力学では、波長の変化により、屈折するので、放物線を描く。
ということになる。
ここでは、同じ物理的事実について、相異なる2つの説明が与えられていることになる。
量子力学では、素粒子のふるまいなど、他の領域でも理解がうまくできるので(高校物理では、うまくいかないだろう)、適用範囲が広いということで、上記(1)と(2)のうちで、(2)が正しい自然界の描像なのだろうということになるようだ。
しかし、こと、斜方投射という一つの事実のみに注目して、2つの相異なる理論があるという状況を考えてみると、「オッカムのかみそり」を適用して、より単純な説明、すなわち、高校物理の説明が、適切なものとして選ばれるという事態にはならないのだろうか。
「オッカムのかみそり」には、特に何らかの根拠があるわけではなく、経験則に近いものであるから、その適用については、慎重に行わなければならないのだろう。
次の例として、私が好んで使うのは、今日が2024年6月30日だとして、
(1)太陽は、2024年6月30日までは、東から昇ってくる。7月1日からは、西から昇ってくる。
(2)太陽は、毎日、東から昇ってくる。
この2つについては、6月30日の夜時点では、どちらが正しいのかを判別することはできない。7月1日になって、どちらが正しいのかが判明しても、もともとの、6月30日を、1日だけ翌日(7月1日)に延ばせば、また、同様に(1)と(2)の理論の対立が継続する。この2つのうち、どちらが正しいのかは、経験的には、原理的に、判定できない。
それでも、「オッカムのかみそり」を適用すると、(2)の方が単純であり、(2)が適切な理論として選定されるということになるのだろう。しかし、「オッカムのかみそり」の適用は、結局のところ、無根拠である。
上の、物体の斜方投射の例でも分かるように、はたして、「オッカムのかみそり」をうまく適用できているのか、それさえも、原理的には、判定できないはずである。なぜなら、「オッカムのかみそり」は、原理的に、無根拠であるからだ。無根拠である以上、その適用の適切さについて、判定できる基準がないことになる。
(2024/7/1追記)
同一の物理現象(この場合は斜方投射)について、高校物理による記述と、量子力学による記述を比較して、後者が選択された。しかし、これが最終的な自然界の描写であるということは、おそらく全くないのだろう。
後世の人間が、全く異なる自然の描写に到達する可能性は、大いにある。というよりも、最終的、究極的な自然の描像に到達することなど、決してありえないのだろう。
そういった、究極的な自然の描像というものは、ちょうど、カントのいうような、統制的理念、あるいは、理想、のようなものであって、有限の存在である人間には、(限りなく)漸近はしても、決して到達できないものなのだろう。