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突然、クラシック音楽が、聴けるように、なった。

突然、クラシック音楽が、聴けるように、なった。

仕事の帰りに、ふとラジオを付けると、クラシック音楽の番組をやっていた。そこから流れてくる音楽が、仕事帰りの疲れた身体に、妙に染み渡った。そのとき思ったのは、なんだか、カントを読んでいるときの感覚に似ているな、ということだった。

その番組が終わると、今度は、イギリスのロック音楽の番組になった。聞いているのが、辛くなってしまい、ラジオを切った。

普段、ジャンルによらず、音楽を聴く習慣はほとんどなかったのだけれども、そんなことがあったので、ふと、クラシック音楽を聴いてみようと思い立ち、家に帰ってから、インターネットを調べると、フリー音源(MIDI打ち込みで、生楽器ではないみたい)が色々あるのが見つかり、ダウンロードしておいた。

翌日から、通勤途中で、入手した音源、ベートーヴェンの交響曲の一楽章だけれども、を聴いてみた。

聴いているうちに、ミシェル・フーコーの『言葉と物』で出てくる、古典主義時代、古典主義的エピステーメーというのは、こういうものなのではないかと、思い当たった。そういえば、いわゆるクラシック音楽といわれているものは、近世に発祥していて、だいたい19世紀末から20世紀初頭で、終わる。まさに、古典主義時代に合致している。(柄谷行人「言語・数・貨幣」の序論部分を、先日来、繰り返し、読んでいるが、その中に、『言葉と物』での古典主義的エピステーメーへの言及がある。たぶん、それで、思い至ったところだろう。だいたい、『言葉と物』は、学生時代に冒頭部を読んで、挫折し、そのまま放置して、現在に至っているのだから。)

だから、突然、クラシック音楽を聴くことができるように、なった。なるほど、これが、古典主義的エピステーメーに合致する音楽か、と、納得がいくばかりである。

それに対して、現代の音楽は、もう、古典主義時代には、属していない。なんだか、荒々しく、激しい、そんな漠然とした印象がある。身体をとても刺激してくれるが、もう、年をとったこの身体には、そんなに、刺激は、いらない。

自分も、年をとったということなのかもしれないし、むしろ、古典主義的エピステーメーに触れていると、素朴なデカルト主義者のようだった、中学生の頃の時代に帰っていくかのようでもある。まだ、ゲーデルの結果を知らなかった、そんな時代の頃のような感覚が、戻って来る。

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