
公理系と演繹された命題群と有限性
(1)もともと、形式性に留意して、その内容を度外視するという姿勢は、そもそも、その内容に対して、特に希望が持てない、あるいは期待するものがないとことから来ている。
期待できるとして、形式にしか期待するところはなく、形式において、その内在的整合性がとられていれば、それでよいとする考えは、形式が先行すれば、その内容は、のちほどに付加される、あるいは、形式のみで、内容に欠落があっても、それは問題とならない、または、形式以外に内容などあるのか、という考え方から来ている。
つまり形式性しかないのであって、いわゆる内容はない。形相によって構成されていれば、質料はなくてもよく、むしろ、形相のみあればよい。形相のみあれば、質料は、その偶然性において、付加されることもあるであろうと考えている。ここにおいて、論点は、地上のもの(アリストテレス)から、ふたたび天上のもの(プラトン)へと還ったのであり、ある意味では「退行している」と受け取る者もいるだろう。
(2)いわゆる(ヒルベルトの)形式主義について、所与の公理系から演繹された全ての諸命題群の集合に対して、そこにおいては内的な整合性が担保されていたとしても、その命題群に含まれない、とある別の命題が、その命題群の中に含めても、なお矛盾が生じないという事実が明らかとなっている。
つまり、所与の公理系から演繹されたすべての命題群の集合を、有限の範囲内で、明示的に完結させることが不可能であることが判明している。
このことは何を意味するか。
(3)「所与の公理系から演繹されたすべての命題群の集合を、有限の範囲内で、明示的に完結させることが不可能である」ことから、「(所与の公理系から演繹されて、その意味で真であるような命題群として)明示的に完結している」と一見して見えるものは、実は完全ではなく、実際には完結していない、不完全なものであることが明らかである。
こういった形式体系において、それ自身が完全な形で完結するということはありえず、常に不完全で未完成なままにとどまらざるを得ないのであり、見方を変えると、常に、ある形式体系には、恒常的に、さらなる発展の可能性が残されているということでもある。
(追記)
観念論と存在論について
観念の世界が、観念の世界だけで完結するのなら、それは、そのまま存在論になりうる。
しかし、上に記したように、観念の世界は、観念の世界だけでは完結しえないので、それは、(とりあえず)観念論にとどまり、存在論には、なりえない。ただ、そのような観念論は、それ自体で、何らかの存在を指し示してはいる。
(追記2)
観念の世界が、観念の世界で完結しない、というのは、有限の領域での議論であることを前提している。
無限の領域を前提にすると、また、異なった議論になりうる。それは、スピノザが「エチカ」で論じているようなものとなる。
つまり、(無限の領域を前提とする場合、)観念の世界は、実無限において、そのまま観念の世界として、完結し、それが、即そのまま存在の世界、すなわち存在論となる。