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パルメニデスの存在論

パルメニデスにおいては、存在とは、思惟されうるすべてのものが相即的にそうであるような、「もの」、であった。

ここでは、すべての思惟があらかじめ存在の刻印を押されており、また、思惟の対象も、それが対象となる限りにおいて、やはり存在たらざるを得ない。

すなわち非存在を考えることは不可能であり、同様に非存在と存在の混合物を考えることも、非存在が思考されないが故に、不可能である。

その結果、存在においては、まず、運動というものが考えられない。というのも、運動が生じるためには、存在と非存在がなければならないからである。

同じように、存在においては過去と未来というものはない。これらも、また、運動と変化を前提しているからである。

さらに、存在が複数ある、ということも考えられない。なぜなら、複数の存在は、それらを分ける非存在を、必然的に要請するからである。故に、存在は単一であり、変化も運動もそこにはない。

存在が、そのような単一で、変化・運動のないものであるために、私たちが通常感覚している、この感覚世界はすべて存在の実相ではなく、単なる仮象でしかないことになる。

この結論においては、存在と感覚とは徹底的に切り離されている。


参考にした本:『西洋古代・中世哲学史』クラウス・リーゼンフーバー 平凡社ライブラリー

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