祝・新作発表記念 ー首都高バトルの思い出を振り返ってみるー Part.11 「大黒PAで遭遇した事件簿」
事件簿と言っても、それほど大げさな話ではないのだが、タイトルは仰々しい方が見てくださる方も多いと思うので…(笑)
今回は前回の「真夜中の首都高ドライブの思い出」に続き、その目的の1つでもあった「大黒PA滞在記」を書き連ねていこうと思う。大黒PAも30代に入り一度も足を踏み入れないまま時が経過してしまっているが、20代の頃は何度も足を運んだ思い出の地である。その目的は、首都高バトルをプレイされている皆様であれば、阿吽の呼吸でご理解いただけると思うが…要するに、そういうことなのである(笑)
①バニング車両が席捲していた「初・大黒PA」
初めて大黒PAに訪れたときは、確か深夜の改造車博覧会が最もピークを迎えていた頃だったと思う。恐らくはこの時期を境に、取り締まりも兼ねた検問等が増えて、次第にPA内部のストリートカルチャーは一度衰退の一途と辿っていたと思うが(現在はやや復活気味のようですね…!)当時はハイエースをベースとしたバニングと呼ばれる改造ジャンルを纏った車両が、それでこそ大音量の音楽をあちらこちらに放ちながら、我が物顔でPAの駐車場を席捲していた時代でもあったので、今見ても異様な光景が目の前に広がっていたのだろう。
好奇心故に足を運んでいるような身分の人間が、今更偉そうに善良な市民面するのも筋違いではあるのだろうが、この頃のPAはオーディオによる騒音問題が深刻であったように思う。とにかく、あちらこちらで全く異なるジャンルの音楽が大音量で流れるものだから、それは暴走族と走り屋による空ふかしが同時に展開する光景と全く大差なかった。
あちらの黄色いバニングからはユーロビートが流れ、こちらの黒いVIPカーからはトランスが流れ、時にはローライダーやスポコンからヒップホップが流れる光景もあったかもしれないが、要するにリズムも音色も全く異なる音楽が1つの空間で流れる、異様な音景が広がっていたのである。これは音楽好きの自身にも中々の不協和音で、工場エリアでもある地域でこんなものが毎晩流れていようものなら、確かに夜勤の労働者の方々もさぞかし迷惑であっただろうと、今思うとそうした空間に興味本位で足を運んでしまった故に、色々と複雑な心境でもあったりする。
そういった負の側面も確かに強かったが、一方で改造車のクオリティは非常に高かったので、あれをそのまま合法のイベントとして開催していたら、さぞかし興味深いものになっていただろうと感じたものだった。何より、その改造車だらけの中でドノーマルのストリームが足を踏み入れると、入れ墨だらけのサウナで白い肌を覗かせる純朴な少年という具合に、いい意味で悪目立ちしていたのだろうと…(笑)
尚、初めて訪れた際はPA自体が12時を以て強制閉鎖となったので、実質数十分ほどの滞在で後にすることになったのだが、日付を跨ぎ明け方に訪れた際は、流石に再度改造車の集まる光景が見られることもなく、本来の静かなPAの姿に戻っていたのも印象的であった。
②大黒ふ頭のドリフト族を取り締まる警察を見守る回
そして、何度かPAを訪れた後に遭遇した「大黒ふ頭を拠点とするドリフト族」。時間帯も夜中の2時ごろであっただろうか。先に触れた即興の改造車博覧会が検問による厳しい制限や施設閉鎖に伴って、一期に陰りを見せたのもつかの間…PAから見下ろすことのできる大黒ふ頭では、深夜のドリフト演舞が密かに盛り上がりを見せていた。
当然だが、これらの行為は公道で行われているが故に交通違反でもある上に、場合によっては危険運転等で重い処罰の対象にもなりうるので、警察も当然の如く取り締まりに乗り出すのだが、一応自分たちは「自身の車に同乗する納税する市民が、警察の職務を見守る」建前で、階下のスモークが舞い上がる光景を眺めていたので、そこはご理解いただければ幸い…(笑)
とはいえ、実際にカーチェイスに発展してしまうケースも目の当たりにしてしまった際は、やはり若干の驚きと恐怖を覚えたのは事実で、こうした行為の危険性を目の前で直視したのは、中々にスリリングであったし、自戒を高める良くも悪くも絶好の機会であったのだと思う。本当に数台ほどが、警察からの停止命令を無視して逃走してしまったのだが、ああいった場合は免停レベルでは済まないのだろう…ちなみに、密かに会場を沸かせていた白いセダンに乗るドライバーの方がとても印象的であり、自身も遠出でずっと眺めていたのだが、その方は嗅覚が鋭く慎重であったためなのか、こうした事態に直面しそうな際にはいち早く察知し、難を逃れたようであった。
即興のドリフト演舞が解散となった後に、先ほど会場を沸かせていた「白いセダン」のドライバーの方がPAに現れたので、友人も含めて少しだけ会話を交わすことができたのだが、「警察から逃げるのは流石にヤバいっすよ」と、一部の危険運転レベルの逃走を繰り広げてしまった人たちを、冷静に振り返っていたのも印象的であった。
③年明けに孤高に向かう大黒PAの思い出
この時のことは、先の件とは全く別の意味で記憶に残っており、初めて年越しを1人で過ごした日のことである。以前の記事でも簡単に触れてはいるが、両親はまだアメリカに駐在していたため実家で一人暮らしを続けており、当時は特に時を過ごすことの多かった地元仲間も、各々の環境や人間関係の中で年跨ぎを過ごしていたので、当時は自身の中で悪習慣化していると感じていた飲酒も中止していたことから、何もやることが見つからなかったこともあり、年末年始に首都高に向かい孤独を紛らわすことにした。
単独でのドライブ自体は、ニートのような生活を続けながら英検1級の取得を目標に独学で英語学習に励んでいた時期にも繰り返していたので、それ自体は特段珍しいことではなかったのだが、首都高でのソレは未経験であったので、半ば気持ちを高ぶらせながら向かっていったのは覚えている。ただ、高速道路をドライブしている際は問題なかったものの、多くの人々が年末年始を祝うために集っていた横浜辺りで出場してしまった際に、その光景を眺めていると何とも言えぬ孤独感に苛まれてしまい、自主社会不在の疎外感がどっと押し寄せる中で年末年始に迎えることになってしまったので、本当に人生でも特に辛い時として未だに記憶に残っているのである。
この時期は就職活動もままならず、肝心の英語学習の成果も目に見える形では現れにくく、尚且つ既卒として徒に時を過ごしてしまう中で膨れ上がり続ける罪悪感にも苛まれていて、本当に「精神的にも社会的にも、全く後のない時期」でもあったから、正直今振り返ってみても、何らかの疾患を診断されても仕方がないような健康状態ですらあったのだろう。6年にも及ぶ空白期間最大の後悔は、心療内科や精神科に一歩踏み出す勇気を持てず、全てを自己責任化して自堕落的に、あるいは自己嫌悪的にニート生活を続けてしまったことなのだが、当時は引きこもりという概念に対する社会の風当たりも非常に厳しかったので、そうした「弱さを受け入れる勇気」を持てなかったのも尚自身を苛めたのだろう。
この時期は確かに、友人にも「ぼーっとしている」と指摘されることも多く、時に昼夜が逆転するほどに生活習慣が乱れながら、過食に走り体重増加を招いてしまう日々も繰り返していた。現在は削除してしまったが、初期に利用していたTwitterの旧アカウントでは、主に大学時代の遣る瀬無さや恨み節を只管に繰り返していた時期もあり、あれも鬱症状の一種であったのだと今なら客観的に自己分析できるものの、そうした余裕もないまま時がただただ失われていく感じも相当に辛かった。もちろん、この時期を通じて大学時代の知り合いとは完全に連絡を途絶えたのだが、それも今となっては身軽に生活できているといえばそうなので、結果的には良かったのかもしれないが。
しかし、そうした負の連鎖も、人の集まる「みなとみらい地区」を乗り越えた際に、運よく解消されることになる。こうした感情の浮き沈みは、社会復帰前に何度も苛まれた厄介な症状であったが、この時は何らかの形でこの時はケリをつけられたのだろう。改めて、大黒PAを訪れて、暖かい大黒ラーメンを食して帰路へと向かうことにしたのだが、ここで思わぬ事態に遭遇することになる。
「大黒PA 臨時閉鎖のお知らせ」
当然と言えば当然だったのだろうが、年末年始のゲリラ的に開催される恐れのあった「自動車博覧会」を警戒してのことだろう…大黒PAも含め、首都高内の屯場となり得る施設は、軒並み閉鎖されていた(汗)ここまでやってきて、こんな事態に遭遇するなんて…笑ってはいけないが、笑うしかなかった(笑)
結局、深夜になりすぎる前に帰路に就くことにしたのだが、単に年末年始に充てもなく首都高をドライブしただけの、本当にイミフな過ごし方をしてしまった、まさしく歴史に残る年明けとなったが、これが事実上の最後の大黒PAの思い出であったりする(笑)まぁ、社会復帰後辺りにもう一度くらいは行きたいなと思っていたりはするのだが…自家用車持ってないですが、オフ会でも開きます?(笑)