見出し画像

グライムスの考察 ~AIは皮肉を理解できるのか~(無料版)

分断という概念が著しく政治思想の軋轢の中で、自己の思想の正当性を高めるために、暗に被害者的ポジションを伴い乱用されるようになって久しいが、今回はそういった話ではなく、純粋に下記の「やひろ」さんのブログを拝読させて頂き、大変興味深い考察の機会を頂いたと思い、幾つか話題を引用させて頂き、自分なりの意見を試験的に書き連ねていこうと思う。

やひろさんもおっしゃられている「日本のお笑いの海外での見られ方」は、まさしく異なる文化を背景に持つ外国人と面白さを共有することの難しさを示す好例であると自分も感じている。

例えば、自分はシンプソンズというアニメを最近英語勉強の合間に視聴しているが、いわゆる「共感性羞恥」的なシーンの中で、日本語版では母親のマージが好きなアイドルが「ジョン・トラボルタ」と吹き替えで訳されていた箇所が、実は英語字幕版では「ボビー・シャーマン」という、日本には中々なじみの薄い歌手であったという事実を知り、実は大きく改変されていた事実を今更に知ることになったのだ。

このシーンはいずれにせよ、現代的なアイドル像を好む娘のリサが、前時代的なアイドル的歌手の名前にクスクス嘲笑するシーンにつながるのだが、仮に「ボビー・シャーマン」という日本文化において馴染みの薄い人物名のまま訳されていたら、「インテリ小学生の嘲笑」の意図が理解できず困惑してしまうか流れてしまっていたのだろうし、そうした「日本語圏の視聴者に理解されるための意訳」というのも、英語版に触れることで初めて理解することになったので、改めて語学や文化の奥の深さと共に、翻訳の難しさを痛感させられたのだ。

ちなみに、その「アメリカの小学生の嘲笑」を誘ってしまったボビー・シャーマンは歌手の方である。

日本で言うなら昭和歌謡のような雰囲気なので、なんとなく小学生のリサにクスクス笑ってしまう存在として認知されているのは理解できる。要するに(あくまで客観的な印象として)ちょっと芋臭いとか古臭いとか、アメリカの若年層にとっては、そうした感情が生まれるような象徴の1つなのかもしれない。ただ、この人物が何故「ジョン・トラボルタ」に吹き替え版で意訳されたのか、その意図は何度見ても理解ができなかったので、恐らく翻訳者の恣意的な意訳であったことは確かだろうし、ボビー・シャーマンがその象徴であることの表現以上に、「芋っぽい雰囲気に笑う現代の小学生」が母親の思い出話を嘲笑するシーンの、意図の伝達が最優先にされたという話でもあるのだろう。

いずれにせよ、トラボルタであれシャーマンであれ、日本人の我々が「アメリカ文化における芋っぽい省庁への嘲笑」を背景知識なく理解することは、やはり困難であるように思えるから、その意味で文化の共有や理解の難しさと、そこで生まれる笑いの差異というものを実感することになった。逆に言うなら、一時期「ちびまる子ちゃん」が外国でユーモアとして理解されないという話も聞こえてきてはいたが、それも同じことなのかもしれない。

そういえば、イギリス留学中に面白い話があったのを思い出した。授業で日本の著名人を英語で紹介する形のプレゼンを各々の生徒が披露する機会があり、うち出身大学のクラスメートで友人の1人が、出身地で当時現職の知事を務めていた「東国原英夫」の紹介したのだが、タレント「そのまんま東」という「(世界的に著名な北野武監督としての)芸人ビートたけしの一番弟子」である意味合いも含め、その人物の背景知識が教室内では皆無であったので、日本人を除く外国からの生徒の反応が今一つであったのが、異国の地で体験するカルチャーショック未満の文化的差異を目の当たりにする形となり、今でも深く印象に残っている。自国では当たり前のように認知される要素を、他文化の人たちに説明することの難しさの真骨頂であろう。

ちなみに、自身は誰を紹介したかは忘れてしまったけど、どうせならイギリスでスピード違反最高記録を更新した「スモーキー永田」氏にすればよかったと、謎の後悔が未だに燻っている(笑)

上記の動画、全てがノンフィクションだというのも恐ろしい…見知らぬ国で、見知らぬ言語を話す人たちの中で、しかも見知らぬ土地の高速道路で、300キロ近いスピードで疾走する無謀さもさることながら、その後の様々な法的人的リスクを全く想定しないスモーキー氏のド天然ぶりにも、ただただ驚愕するばかりである…(笑)ちなみに、2度目の渡英は改造車展示会の来賓として招待された際に実現したらしく、その会場で現地の警察官に写真撮影を求められていた姿を見て、その只ならぬシュールな絵面に爆笑してしまったのも非常に懐かしい…(笑)

冗談はさておき、このように言語と文化を飛び越えて、他社会に住む他者とコミュニケーションを図ることは、Jリベラル的な理想主義の中では義務であるかのように厚かましく語られているが、確かにどれほど国際感覚やら人権感覚を身に着けようが、根本的には難しい側面も多いのだろう。

故に、ある意味国際言語として世界中で機能するビジネス英語に対しては、グーグル翻訳等の機能が重宝される傾向ではある一方で、文化的な背景や文脈的な理解が非常に複雑となる、文学的な作品における翻訳や解釈においては、やはり機械的インテリジェンスを以てしても限界があるのではないかと、英語への理解を日々深めていくたびに痛感させられている。それは、やひろさんも「現地のことが書いてあると(理解が)難しい」とおっしゃられていることにも通じるのだろうけど、逆に言うならそのことすらAIが解決してしまうことになれば、それが文化や表現の共有という形でプラスに働く可能性もあるにせよ、違いがあるからこそ生まれるであろう我々の文化や表現そのものが、まさしく死を迎える瞬間でもあるのかもしれない。

あるいは、人工知能やコンピューターが絶対に踏み込むことのできない人間の領域…それは「皮肉」であるのかもしれない。というのも、そうした知能が意図せず生み出す「浮世離れしたフレーズや言葉の組み合わせ」に人間が「変梃りんな面白さ」を感じるという話ではなく、人間が含意的な皮肉を理解するようなプロセスをAI自身も習得し、本当の意味で様々な背景や意図が込められたユーモアを、人間に完全に納得させる形で発することができるのか、あるいは余白を人間の表現のように残すことが出来るのか、という意味である。つまり、AIが人間に「粋」と感じさせるレベルで皮肉や芸を身に着けることになったら、それもまたアーティストあるいはクリエイターの存在意義自体に対する、究極の死を意味するのだろう。

話が少し脱線してしまったので本論に戻るが、逆に文化や言語の枠を超えて、世界を駆け巡りヒットする映画作品や映像作品も確かに存在する。自分は北野武監督を敬愛しているが、彼の作品も主にヨーロッパを中心に高く評価を受けていることはしばし耳にされている方も多いだろう。だが、意外にも海外を舞台にした作品は、現地のマフィアと日本の元ヤクザが率いる多民族の愚連隊が対峙する「Brother」という作品のみで、あとは「アウトレイジ」シリーズにおいては場面ごとに韓国での撮影映像もあれど、ほぼ全ての映像素材が日本で撮影されている上に、日本の俳優を主にキャスティングして、日本語で主に物語が展開する映画であるのに、そんな北野武監督の映画は海外で高い評価と人気を得ている。

やひろさんもおっしゃられているように、芸術は国境や文化を超える要素を持っているのだと思うので、そういう観点で丁寧に考察を重ねていけば自ずと答えに辿り着くのかもしれないが、純粋に映画としての評価もさることながら、これもよく考えれば、各々の文化を飛び越えて発生している現象であるのだから、確かに非常に不思議なことではある。

他にも、かつては「米帝ディズニーを倒す」というほどであった宮崎駿氏でおなじみの、日本のアニメ業界から生まれたスタジオジブリの作品も、今ではそのディズニーが海外での版権管理を担う「捻じれ」が生じるほどに、世界各国で「ジャパニメーション」という枠を超えて大変な人気を誇っているようだし、ハリウッドで(興行的にも作品の評価も災害級となってはしまったが)リメイクが作られるほどに世界的に根強い人気を誇るドラゴンボールも、チャンネル自体が古き良きコメディアニメの宝庫であるが故に、視聴者のニーズの変化の中で苦戦していた、米国の有料CH「カートゥーン・ネットワーク」の劇的な救世主となった話も有名である。

より身近な例であれば、今日の「RRR」といった文化的背景も異にするインド映画が日本で爆発的にヒットする現象も含め…確かに、説明が難しいのだが文化の垣根を超える現象というのは、確実に世の中に根付いているように思える。それは、現代の多様性の純然たる象徴でもあり、我が国の表現の自由が聖域なく守られる中で醸成されてきた、豊かな創作の土壌を暗に示しているのだろうし、その傾向は今後も変わらないでほしいと切に願うばかりである。



いいなと思ったら応援しよう!