上方落語協会志演義⑥〜繁昌亭開設前後の時代的考察【一部無料】

【繁昌亭以前と繁昌亭以後】

上方落語界は、繁昌亭が出来る前と繁昌亭が出来た後では、色んなことが変わりました。

本日は「繁昌亭が出来たことで、大きく落語界が変化したこと」を記事にしてきます。詳しく説明すると、悪口に感じる人が出るので、そこは有料部分にして、まずは概略を説明します。

①繁昌亭が出来て、一門の枠を超えた落語家同士の交流が増えた

今は上方落語四天王の孫弟子や曾孫弟子、玄孫弟子が人口の大半ですので、細分化した一門が発達しています。大きな一門としてのコミュニティ(文化圏)が昔よりは薄れて来てる気はします。それぞれ自分の師匠が統率する一門へのアイデンティティ・帰属意識は持ってはいますが、それ以外の噺家に対しては「噺家仲間全体のうちの1人」として尊重しあう感じがします。つまり、師匠が違えば、大きな枠組みで同じ門派の噺家と、別の一門の噺家に対する関係とがあまり変わらなくなって来ているということです。(笑福亭だからとか、米朝一門だから、、、みたいな大きな門派の枠組みが無くなりつつあります) いわゆる核家族化&個人主義(個人的付き合い)みたいな話です。

しかし、繁昌亭が出来る前は、一門への帰属意識はもう少し強かったです。そして実は、そういう「一門という小さな文化圏」ではなく、昔の上方落語界は、「もっと大きな文化圏の違い」が存在していました。イメージで言うと米ソの冷戦時代ぐらいの「2つの大きな文化圏」が存在していたのです。もちろん、繁昌亭ができて以降、この2つの文化圏の違いは薄れました。
(どういう2つの文化圏かは、すいませんが「有料部分」で説明します)

それこそ、米ソの自由主義VS社会主義みたいな大きな枠組みの世界から、ロシア・アメリカ・中国・イスラエル・イスラムなどの複雑な世界に変わっていったように、上方落語界も大きく変化したのです。
いわば、繁昌亭が出来たことは東西ベルリンの壁が無くなったのと同じです。繁昌亭開設によって、2つの世界(各一門の文化)がシャッフルしていったのです。こういう話は、繁昌亭以前の上方落語界を知らない人にとっては、考えられないような「昔話」です。
本日は「米ソの冷戦からグローバル世界」みたいな感じで上方落語世界をお話します。

そして繁昌亭の影響で落語の市場規模が10倍ぐらい大きくなったことで、落語自体の演り方が大きく変化しました。それは主に下記の2点です。

②タイパの良い落語になっていった(笑いのタイムパフォーマンスが求められるようになった)

③上方落語が江戸落語化した

本日は、上記の①②③の変化について、構造主義的に(?)考察いたします。(構造主義の使い方が合ってるのかよく知りませんけどj

ただ前提として、
私が入門した時ぐらいは(西暦2000年前後)、まだ「落語がダサい(テレビに出てない芸人は全員面白くない)」という先入観が世間にある時代でしたが、徐々に変化していき、繁昌亭によって一気にマーケットが拡大して、落語は1つの趣味であり、「皆が先入観なく楽しむ娯楽」という分野になった気はします。
いわば、繁昌亭が出来たことによって、それまでの「落語の1つの時代」が終わった感じはしました。

いわゆる枝雀ブームの完全な終焉と言っても良いかもしれません(逆に言えば枝雀ブームが、枝雀師匠が亡くなった後ですら長らく続いていたとも言えます)。
繁昌亭開設後は、全く新しい「落語を知らない人」がお客さんとして沢山流入してきた時代です。(枝雀師匠を知らない世代の登場です)
この「時代の流れ」「お客様の流れ」「繁昌亭が出来たことの変化」で上方落語界はどう変わったのでしょうか?・・・本日はそういう社会変化を書いていきます。

【ご注意】先に言いますが、別にこの記事は、どこかの一門や噺家の誰かを揶揄するためのものでもないので、誤解のないように…。あくまで1つの考察というか、「実話ナックルズ」の落語版としてお読みください。


【落語会の構成時間の変化】

繁昌亭が出来る前と出来た後では、落語の方法が大きく変わりました。
それによって落語の公演時間(構成時間)が変わった気がします。

タイムテーブルを見てもらえばよくわかります。
繁昌亭開設2006年以前の落語会だと、
(少なくとも西暦1998~2006年ごろ)

5席の番組の場合、

前座20分弱(18分ぐらい)←★昔は長い!
二つ目20〜25分
中トリ30分
休憩10分
モタレ20〜25分
トリ30〜40分

みたいな感じで5席2時間半ぐらいの公演でした。
(※大阪の「前座」は東京の身分と違い、「最初に出る人間」を指し、
芸歴で言うと東京の「前座&二つ目」クラスが出ます)

今は、多くの会で5席だと

前座15分(以内)
二つ目20分
中トリ25分
中入15分
モタレ20分
トリ25〜30分

で、5席2時間ぐらいで終わったりします。
(もちろん2時間半やったり、めちゃくちゃ長講の人とかいますが)。
あくまで「たま調べ(私の体感)」ですが、
少なくとも傾向として公演時間・1人の高座時間は短くなっています。

これは若手噺家の間で「落語が凝縮される」ようになったのです。
なぜ、このようなことが起きたのか?
・・・それは天満天神繁昌亭が出来たからです。

2006年に天満天神繁昌亭ができました。
その時の昼席の時間割は、たしか下記です。

前座10分
二つ目10分
三つ目20分(最初は15分やったかも?)
色物10分
中トリ前20分
中トリ25分
中入10~15分
カブリ15分
シバリ20分
色物10分
トリ30分
(※カブリと色物の位置が変わる場合はあります。)

開設当時は番組10本で、13:00開演→16:00過ぎ終演(3時間公演)でした。
※途中で、
「二つ目が15分」になったり(これは割と初期に変更)、
「三つ目が20分→18分」になったり、
「前座が15分→12分」になったり、
「中トリ前が15分」になったりしました。
※「シバリが15分・前座が10分になった」最近の形は、8本→10本になった時だった気はします。

<微妙に記憶が間違ってるかもですが…経緯は下記です>
①最初が3時間(超)公演だったのは間違いないです。
そして、前座二つ目が10分だったのも間違いないです。

繁昌亭開設当初、私は前座か二つ目のへんの出番でした。
今まで落語会で「15分以上、20分以下」を基本として暮らしていたので、
突然ネタをどうやって「10分以下にするか」ということに頭を悩ましたものです。
それこそ「平林」の台本そのものでも、15分間ぐらいやっていた時代で、前座ネタもフルにやると20分を超えるネタがほとんどでした。それの途中を抜くか、後半切るかで20分以下にして前座を務めていた時代です。
不思議なもので、10分にするのを1週間×2回とか出演すると、段々「体がそれに慣れてくる」ものです(笑)
→しばらくして、繁昌亭の二つ目出番が15分に変更になった時に、笑福亭由瓶兄と「もう10分の体になってしもてるから、15分やと持て余すわ」と二人で話し合った記憶があります。

②途中で「前座・二つ目」がともに15分になったのですが、
一方で「全体の公演時間が長すぎ」の声があり、だいぶ経って
「前座12分、二つ目15分、三つ目18分」という時間帯になりました。
これは米團治師匠が提案したと言われています。

※米朝一門は繁昌亭以前から、サンケイホールなどの前座は15分以内というルールがあったそうで、公演時間に厳しいイメージでした。
それゆえ、今思うと「米團治師匠のさすがの采配」ですが、当時は「12分とか18分て、細かいな!」という声も聴きました。実際「そんな細かい時間割にしても出来ないやろう」という感覚の人も多かったのも確かです。
繁昌亭以前は「(前座が)15分で降りてくるて!米朝一門の会やないねんから」というセリフをよく聞きました。笑福亭は15分以下だと「お前、やる気あんのか?」という雰囲気でした。(その代わり前座が20分を越したら「舐めてんのか」と怒られます)

③当時は今以上に年功序列の雰囲気が強かったです。今以上に先輩に何かを言えない時代です。
しかし、繁昌亭昼席においては「微妙に年功序列でない番組」が出ていました。(これが物凄いピリピリを生んでました
基本の番組は年功序列なのですが、特に「トリと中トリ」において香盤通りでなかったのでちょっとした事件が起きました。
どんな事件かというと、、、
(ここから有料です・・・。)

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