主人公と自分のの属性が同じでないと感情移入できない?
主人公が黒人だの白人だのアジア人だの男だの女だの、「西洋映画の主人公へのポリコレゲーム」の話を見るたびに、思うことがある。
西洋、というかポリコレ好きの人って想像力が貧困なのだな、と。
日本は主人公の『外面の』属性は重要視されない。白人でも黒人でも、異性であっても、スライムでも自分を投影できてしまう(イケメンや美女でも投影できる)。
しかし西洋圏では、姿かたちが違うだけで、自分を投影できなくなる。
何が彼らの想像力を削ぐのであろうか?
それは西洋圏、特に人種のるつぼであるアメリカでは、否応にも自らの「出自」や「人種」を意識せざるを得ないからだ。
レストランでも、店や公務員の態度も、人種により扱いが全く変わる。変わるだけならまだしも、明確に「階級」として分けられる。ただの肌の色や出自で。
またこんなエピソードがある。黒人の女児がアナ雪のエルサの格好をしたら、周りから「黒人はエルサになれないよ」と言われ、自分の体をゴシゴシと泣きながら洗ったそうだ。
そんな「人種至上主義」の英才教育を受ければ、外見や出自の違う存在に自分を投影する「想像力」が欠けていくのは当たり前だろう。
対して日本はどうだろうか。
銀髪でも男でもおっさんでもない女子中学生が、目の力を抜きながら「なにしてんだよオイィィィ!」と言っても、苦笑はされど「男じゃないのに銀さんにはなれないよ」とは誰も言わない。
「人情もユーモアも甲斐性も無い癖に、喋り方とだらしなさという誰でもマネできる部分だけマネしてんじゃねーよ」とは言われるが。
自分がアメリカにおける、主人公の人種や出自にこだわる傾向にあまり良いイメージを抱けないのは、それが「主人公の人種は自己を投影する時に重要なもの」という世界を肯定したくないからだ。
日本人であっても白人に投影していいし、黒人に投影していいし、男でも女でもスライムでも何でも自分を投影する世界の方が俺は好きだ。
だが、日本では「人種」を意識することが少ないのでそうなっただけで、逆に「内面の属性」は重要視される。
たとえば、「何が好きで、どんな人が嫌いか」。
訓練されていないオタクは、主人公は「いじめられっ子気質」もしくは「オタクに優しい人」でなければ感情移入できなという人は多い。
昔は「何が好きか」というだけで差別されていたので当然だろう。
また男性特有の傾向として、「女キャラクターに自己投影するなんて」と言われてきた人も多いので、結果的に客体的にしか女性キャラクターを見れない傾向もある。
女性は男性に自己投影できるが、逆は難しいのだ。
この部分はこれから解消していかなきゃいけない部分だと思う。
これを見ている人は、そういった「投影対象としての主人公」の在り方についてどう思いますか?
どんな投影対象が魅力的か?
考えてみてください。