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「生成AIはずるい」という現代病

ある会社の従業員のひとりがため息をつきながら、こんなことをぼそっと言ったのだ。


「なんだか、生成AIを使っていて周りから”ずるい”と思われている。そんなような眼差しや態度を感じるというか…。」

私はある組織の社員十数名にインタビューをしていた。

それを聞いたとき、私は「なるほど、こういう感覚が現場を覆っているのか」と気づかされた。

またちょうど、この記事が話題になったこともありおもわず筆を進めた。

 ー「生成AIを使う」のはずるい? 稼ぐ力を磨くために女性たちが解くべき自己暗示ー
https://woman-type.jp/wt/feature/36929/


新しい技術であればあるほど、不確かさや不安、そして“ズルさ”へのモヤモヤした気持ちがつきまとう。


この「生成AIはずるい」という感覚の正体はなんのか、これまでの技術とは違う”何か“を考えた。



努力の代替が「ずるい」を生む

成果への労力投資という価値観が、生成AI利用を「ショートカット」として否定する。

生成AIが“ずるい”と思われる背景には、"本来"の仕事に求められる「時間と労力」がすっ飛ばされている感覚があるのだろう。

たとえば、仕事Aにはこれだけの時間がかかって当然だとか、ある程度スキルが必要だとか、そういう見えない“当たり前”が組織内にコンセンサスとして存在している。

しかし、生成AIが導入されると、特定のプロセスを一気に短縮して成果を出してしまう可能性がある。

そこをはみ出す人間は、悪として扱われる。

「楽をしている」と疑われたり、逆に「自分はちっともAIを使いこなせていないから損してる」と焦燥感を抱く人も出てくる。

また、真面目な人は「成果が自分のものではない」感覚に苛まれるかもしれない。


そこから、一種の不公平感や妬みのようなものが入り混じるのかもしれない。


現実的にはAIを使う人ほど、トライ&エラーの回数が増え、結果的に「AIに何をどう頼めばいいか」という新たなスキルを身につけているケースも多い気がする。

本人の意識と周囲の認識との間にギャップが生じやすいのも、この「生成AIはずるい」問題を複雑にしているように感じる。


なぜ今、こんなに“ずるい”が顕在化してきているのか

エクセル、メールソフトやGoogle検索だって、初めて出てきた頃は「こんなの使ったら手抜きだ」と言われることもあったそうだ。だけど今や誰もが当然のように使っている。

なのに、生成AIにはこれまで以上に強い「ズル感」がまとわりつくのはなぜなのか。

大きな理由として、生成AIがカバーする範囲の広さが挙げられると思う。エクセルなら表計算、メールソフトなら文章のやりとりという具合に、用途が比較的限定されていた。

ところが、生成AIは「文章を書く」「要約する」「翻訳する」「アイデア出しする」「プログラムを書く」など、多岐にわたる支援をしてくれる。まるで“なんでも屋”なのだ。

つまり、できない人には想像がなおできない民主化している技術にもかかわらず、ルールベースの機能と違い得体の知れない存在でにうつる。

さらに、導入が組織全体で統一されていないケースもまだあり、一人ひとりが自分の裁量で試している状態というのもポイントだと思う。

ある人は資料づくりで毎日使っているけど、別の人は「あんなの役たたない・怪しいから触りたくない」とまったく利用しない。全員に武器が行き渡っていないと不公平に感じるだろう。

また、性能がよい生成AIを利用するにあたってお金がかかることも大きいのかもしれない。通常の社会人は生成AIをプライベートで使っても給与は上がらない。

アウトプットの創造性”にまで踏み込んでいる。人間が独力で「頭を捻って考える」しかなかった部分にまで入り込んできた感覚が強い。

しかも、それにフリーライドしてる感覚もあるのかもしれない。


他にもあげるなら、メディア報道の影響も大きい。たとえば「AIが誤情報を吐いた」「著作権侵害の恐れがある」といった話が目立つと、「やっぱりあれって危険なものなんじゃないか」という先入観が生じる

「そんな危険なものを、こっそり使って得をしている人がいるらしい」と思いはじめれば、あっという間に“ずるいよね”という言葉にならない印象がみんなを蝕んでいくのは想像に容易い。


“真面目な人ほどAIを敬遠しがち”というジェンダーギャップ

ここで興味深いのが、男女差の問題だ。

ある研究によると、男性よりも女性のほうが、生成AIの利用に対して「ずるいのではないか」という抵抗感を持ちやすい傾向があるらしい。実際に生成AI利用率が社会人も、学生でも低くでている調査結果が多い。

努力ヒューリスティック(effort heuristic)」の話を思い出してみよう。

簡単に成果が得られると「ずるい」と感じるのは、社会心理学で言う「努力ヒューリスティック(effort heuristic)」とやつだ。

つまり、大きな努力を払って得た成果ほど価値があると思い込む傾向があり、逆に言えば、努力せず得た成果は正当に思えないといったやつだ


特に成績上位の女性ほど「良い女性であろう」という社会的期待を背負いやすく、“努力を怠るのは悪”という価値観のもと、「AIでラクをする=良くないこと」自己暗示をかけてしまいがちだという。

結果的に、自己評価が高く責任感の強い女性ほど、AI活用のハードルを高く感じてしまうわけだ。ここで「ずるいからやめておこう」と二の足を踏むことは、キャリア上の機会損失にもつながりかねない。


努力のあり方は変わるが、「努力が消える」わけではない

では、生成AIを使うと本当に“努力”が消えてしまうのだろうか。個人的には、そうではないと思う。むしろ、従来型の苦労が減った分だけ、別の次元の“努力”が必要になっていると実感している。

「正しく問いを立てる」「どこからどこまでをAIに任せて、どこを自分の裁量で調整するか」….といった判断が欠かせない。使えば使うほど、その判断力やディレクション能力を磨く必要が出てくる

また、いわゆるブルシット・ジョブAIに代替されてくると、意思決定や高度な思考タスクがすごい短サイクルで降り掛かってくる。正直、最近は脳が疲弊する

「一切努力しなくても成果が出せる」という意味ではなく、努力の質と方向が変わる、というほうが正確ではないか。


最終的には、数年後にはこの議論も「昔はこんなことで論争していたんだよね」と笑い話になっているかもしれない。今、この過渡期だからこそ、「生成AIはずるい」という声が目立ち、“真面目な人”ほど悩みがちな状況なのだろうと感じる。

(一方で「自分で時間をかけてやりたい」、「遠回りしたい」が許容されにくくなる社会はひょっとしたら生きづらいかもしれない。)

おわりに――「ずるさ」を乗り越えて踏み出す新しい一歩

人間が苦労や時間をかける行為そのものを重視してきた文化的な下地がある。「生成AIはずるい」といううっすらとした批判や後ろめたさは、その下地から生まれる自然な反応なのは理解する。


その“ずるさ”への違和感をバネにどう組織として導入を進めるのか、どう個人として使いこなしていくかが、今まさに問われている。

「ずるいと思われるかもしれない」なんて理由だけで萎縮するより、自分のなかで「AIとどう生きるか」「どんな部分を自分の強みとして発揮するか」をクリアにしておけばいいのではないか。

医者に診てもらっても、この現代病は治らない。この症状を自覚するところからだ。


イソップ寓話「すっぱい葡萄」が頭をよぎりながら、引用しようかしまいか、その気持を抑えて記事を終わらせる。

素敵な一歩が踏み出せますように。



参考文献・データ:

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