徒然日記 - 芸術大学で授業をして-
授業の内容は以下に詳細レポートからどうぞ。
「一体、どこからどこまでが自分なんでしょう…?」
講義後、ある学生が私の元へ不安そうに歩み寄ってきた。
確かに、生成AIは私たちの思考・作業・創作活動を大きく助けてくれている。アイデア出しからアウトプットまで、その支援は計り知れない。
しかし同時に、自分の手を離れたところで生み出されるものが増えていけば、作品に対する実感が持ちにくくなるのも事実だ。
学生の言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
なるほど。
AIによる提案があまりに的確だったとき、逆に自分の存在意義を見失ってしまう。
この学生の振り返りは、生成AIが一学生の「主体性」を揺るがすことにまで及んでいるのだと改めて感じた。
私は考えた。
「生成AIを使っているときの身体性と
コントロール性があまり実感できないのではないか」と。
絵を描くにしろ、文章を書くにしろ、従来のツールを使う限り、私たちは自らの身体を通して表現と向き合ってきたケースが多い。
一方、生成AIは、私たちの思考をはるかに超えたブラックボックスだ。その圧倒的な力に頼ることは、創造のプロセスをどこかで断ち切られているような不安を生むのかもしれない。
私は少なくともあの学生は他の人よりも一歩先に歩みだしているのではないかと感じた。つまり、ある種の「自己否定」のプロセスを経て、次に進むのではないかと。(そのように返答した)
この学生との対話は、生成AIの普及が「人間の創造性や主体性とは何か」また、「アイデンティティとは何か」という根源的な問いを投げかけていることを、改めて気づかせてくれた。
これに関連してここ数ヶ月感じていることがあるので追加で共有したい。
生成AIが揺さぶる「記憶」と「人間性」
この影響は、創造の主体性という問題にとどまらない。
私たちの「記憶」や「人間性」のあり方さえも、
揺さぶり始めていると感じる。
ここ数ヶ月感じる。
「昔の写真から、まるで本物のような映像を作り出せる。論理的にそれは偽物だとわかりながら自分の記憶と、AIが生み出した情報が混ざっていく…」
かつて体験したことのない"リアル-like"なフィクション映像を目の当たりにすれば、脳はそれを事実と認識してしまうかもしれない。
それは私たち自身の歩みの中で積み重ねてきた、「記憶」とは別物なはずだ。
加えて、中国では故人をデジタルで復活させるサービスの利用者が増えているという。授業でも詳しく経緯や状況を説明した。
これは、なくなった父親をデジタルヒューマンにして喋らせている様子だ。
復活した父と娘が対面するや否や、泣きはじめる。
しかし、そこで生まれる記憶とは一体なんなんだろうか?
AIが生み出した故人の笑顔や優しい言葉に触れ続けることで、生前の”お父さん”の記憶が上書きされてしまうとしたら…?
また、例えばもしも、亡くなったお父さんのデジタルヒューマンに、便利だから毎日の天気を教えてもらうようにしたとしよう。
でも、生前のお父さんは、そんなことを話してくれるような優しい人ではなかった。にもかかわらず、お父さんのAIは、何事もなかったように天気を教えてくれる。
つまり、ー 生成AIの強みであるバンドル・エコシステム化 ー 大切な人の記憶が、便利な「機能」として上書きされてしまう。
ちなみにこのサービスは未練が残る元彼をデジタルヒューマンにするユースケースもあったという。つまり死んだ人だけが対象ではないのだ。
これは一例だが、あえて私も答えがないことを授業では取り扱った。
彼らからも学びたかった。そうしたかった。
最初の触れ合い方が決定的に重要- 高いプレッシャー
講義の前後で学生にアンケートをとったところ、満足度が非常高いだけでなく、9割近くの学生が生成AIに対してポジティブな変化があった。
素直に嬉しい。
アンケート結果抜粋:
1つ気をつけていることがあった。
生成AIとの最初の出会いが決定的に重要だということだ。ファーストコンタクトで多角的かつ前向きなイメージを共有できれば、その後の学びは格段にポジティブに進んでいく。
逆に、最初の印象が悪ければ、いくら後から良いことを言っても、その壁は越えにくい状態になる。ある種のアレルギーみたいなものを作ってしまう。
もしくは、自分の中の「生成AIってこんなもんんでしょ」の枠から抜け出すことが難しくなる。
だからこそ私は、一般の企業研修でもそうだが、特にこの授業では相当な時間と熱量をかけて入念に準備した。
下手をすれば学生の将来の選択肢すら左右しかねない。
そんな使命感や責任感を強く感じており、正直なところプレッシャーがすごかった…。(これは勝手な思い上がりかもしれない)
AIがもたらす課題には蓋をして、ただひたすら目新しさや便利さを強調する。そんな浅薄な語りかけが、学生たちの生成AIとの出会いを決定づけてしまわないようにしたい。
界隈の企業の研修やイベント登壇を沢山みる機会があるのだが、それと同じ要領で対応してはいけない。
ビジネスでお金を稼ぐこと自体は否定しない。私だって生活がある。
でも、教育の入り口だけはもしかしたら別物なのかもしれない。 目の前にいるのは、社会人ではなく、これから様々な可能性に挑戦しようとしている学生たち。
ファーストコンタクトを預かる者は、ビジネス臭は脇に置いて、熱心に真摯に取り組まないといけない。
きっと、学生は社会人の浅はかさを簡単に見抜くだろう。
不気味や気持ち悪さに向き合う
「すごい」「面白そう」といった期待の声が多い一方で、「不気味」「気持ち悪い」といった意見も少なからずあった。
実は、この「不気味」「気持ち悪い」という感覚は、すごく真っ当なものだと私は考えている。
生成AIの仕組みは、人間の脳の構造を模倣したニューラルネットワークをベースにしている。
考えてみてほしい。
もちろん完全に模倣をしているわけではない。
生成AIが生み出すものは普段、私たちが現実世界で認知するものとは異なる表現や反応を織りなす。
もちろん産業革命など、歴史的な転換期においても、人間の働き方が大きく変化してきたがそれ以上のシフトだろう。
しかし今回は、もっと根源的な部分、人間の「創造性」や「存在意義」といったものが、生成AIによって揺るがされるかもしれないという、漠然とした不安が、学生たちの「不気味」という言葉に表れていたように思う。
ただ、生成AIに積極的に触れていく重要性は疑いようがない。怖いからと避けていては何も始まらない。ただし「まずは触ってみよう」といったキレイごとでは済まされない、慎重な姿勢が求められている。
私自身も、生成AIと向き合う中で、
その影響力の大きさに身が引き締まる思いだった。
特に、今回の講義のように、若い世代と生成AIのファーストコンタクトを担う際には、大きな責任を感じずにはいられない。
4つの授業で大切にしたこと
学生と教授、両方の視点を授業に反映
生成AIは学ぶ側と教える側の両方に影響するため、それぞれの立場の意見や課題を共有し、授業内容に反映。
双方の疑問を解消できる構成にした。
アンケートのコメント抜粋:
生成AIの説明は後回しに
授業の冒頭では生成AIの仕組みや技術的説明は避け、学生の率直な感想をリアルタイムサーベイで共有。
生成AIによって将来の仕事や学びがどのように変わるのか、具体的なイメージを掴めるような内容に。
社会的影響や倫理的課題について思考する時間を確保し、関心が高まった後に説明。
アンケートのコメント抜粋:
パーソナライズされた学びを支援
130ページの授業資料や関連情報・記事を参照するGPT-4o チャットボットを約60名全員に無料配布。
チャットボットは情報提供だけでなく、学生の思考を深める「学びのパートナー」としての役割。
自分が理解しやすいアウトプットにしてもらうコツなどを冒頭にインプット
利用サービス:
アンケートのコメント抜粋:
体験を通して生成AIを経験
ワークショップで複数の生成AIツールを組み合わせ、可能性と課題を体感。
アイデアの可視化、合意形成、問題発見などデザイナーの仕事に生成AIを活用できることを伝えた。
アンケートのコメント抜粋:
企業の業務効率化と異なり難しいと感じた点
学びのループを阻害しかねない危うさ
企業での生成AIの活用は、業務効率の改善や人的コストの削減といった明確な指標で評価できる。一方で、教育の場では、効率化が必ずしも良い結果につながるとは限らない。
そもそも学びとは、自ら考え、試行錯誤し、内省することで得られる経験の積み重ねだ。
ところが、生成AIに頼りきってしまえば、その学びのサイクル自体が断絶されてしまう危険性はる。
つまり、効率を追求するがゆえに、本来身につけるべき力が育まれないというジレンマ。教育という営みの難しさを先生方が感じていた。
評価基準の曖昧さ
加えて、AIを活用した学習をどう評価するかという問題も避けて通れないようだ。
生成AIを使う学生とそうでない学生が混在する中で、一体どんな評価軸を設ければいいのか。でも、評価指標を考えないといけないのは従来と変わらないじゃないかとも思う。
AIを活用するからには、評価のあり方も再考しなければいけないかもしれない。そんな課題意識を強くしたのも事実だ。
教える側のリテラシーの壁
生成AIを活用した教育は、教える側の力量にも大きく左右される。 ブラックボックス化したツールを表面的に使うだけなら、それほど難しくはない。
でも、その仕組みや限界をきちんと理解し、最低限の法や倫理的な配慮ができるだけのリテラシーを身につけるのは意外にも容易ではない。これが、評価指標や課題設計に難航する要因だ。
企業なら専門の担当者を置けばいいが、学校現場ですぐに教育カリキュラムを改定したり、それを担える人員確保に柔軟に動けることは少ないだろう。
学生が学ばなくなるへのアンサー
「生成AIがあるとそれに頼って学ばなくなるのではないか」
多くの教育者が思うことだろう。
個人的な経験に基づいてアンサーすると、学びはもっと楽しくなり加速した。
これまで何かを調べるとなれば、自力で答えを探すしかなかった。図書館に行って本を漁ったり、詳しい人に尋ねたりと、一定の手間とハードルがあった。
だから、ふと浮かび上がった疑問や興味についての探索を
無意識のうちに諦めてしまうことが多かったと感じる。
しかし、生成AIという強力な「学びのパートナー」を得たことで、世界が一気に広がったように感じている。
最初の疑問が解消されると、そこからさらに新しい疑問が生まれるのだ。そしてまたAIに尋ねる。疑問と回答の連鎖が延々と続いていく。
ただ、知ることへの興味を絶やさず、自ら問い続ける姿勢。
それがないと、たしかに教育者たちが思う方向にいく学生もいるのかもしれない。
この変化が激しい時代には、今まで取り組んでいたこともすぐに陳腐化してしまう辛さに何度も出くわすだろう。(現に私も何度も経験している。辛い)
そのたびに、
ー 知ることへの興味を絶やさず、自ら問い続け、試し続ける姿勢 ー
これが、生成AI時代を生き抜く上で何より大切な資質なのかもしれない。
Symbiosis - おわりに -
今回の講義を通して、改めて生成AIは「希望」と「不安」が表裏一体となった、複雑な存在であることを実感した。
そして、その影響力は、私たちの創造性やアイデンティティ、さらには「人間らしさ」の根幹にまで及んでいる。
一方で楽観的になると、上記のような声がきけたのが嬉しかった。
なにかポジティブなシフトを与えるきっかけが作れたなら、それだけで満足だ。
とはいえ、私の力不足も感じさせられた。
AIと人間双方に利益がある形でSymbiosis-共生-していけるのか、そして実際に現場で活用していくのか再び考える旅に出るとする。
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