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お金の話:私のお金観

うう、noteを始めると言って、あっという間にこんなに時間が経ってしまった。。。

日頃、仕事で文章を書きますが、自分のことについて書くとなると、なかなか筆が進まないのです。

最近ふと思ったことをひとつ。

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仕事柄?よく飲み会に誘われるのですが、先日も経営者の交流会(というのは名目で言ってみたら、若い女性が半分くらいで合コンだったでござる)に参加。

そこでこれから売れる予定のアイドルとか、何やってるのかわからない港区女子的な人とかと話してきたんですが、仕事のことを根掘り葉掘り聞かれました。

・その仕事って儲かるんですか

・どこに住んでるんですか

・お金持ってるんですか  (←マジで聞かれる)

うぅ…お金の話ばかりや。

ちなみに個人的には「年収いくら」と正面から聞かれてもあまり抵抗はないので、別に質問自体は良かったのですが、彼女らの価値観も同時に透けて見えてくる。

彼女たちとしては、何もしないでお金が入ってくるようなビジネスモデル(打ち出の小槌)を築き、資産を持っているオーナー経営者に憧れているのだと思う。なまじいろんな経営者とあってきたので、中途半端にビジネスリテラシーが高い(だから、仕事はモノづくりをしてるよ→それって儲かるのと、質問が続く)

彼女たちが見えているのは「今」。俺が将来どんなビジネスを描いているかは興味ない。今、打ち出の小槌を持っているかが重要で、将来それを手に入れようと画策していても、判断軸から除外される。

世知辛い世の中や。。。

。。。

彼女たちのほとんどは、自分で武器を持って立ち上がって戦ったことがない(=独立して、稼いだことがない)。だから見えるところでしか判断できないのかもしれない。

一見儲からなそうなビジネスモデルでも、儲ける方法なんていくらでもあるし(感のいい人は、どこに優位性があるのかを聞いて頭の中でその企業のストーリーを描こうとする)、そもそもそれが儲かる儲からない別に「好きでやってるから」という世界があることを知らない。

売上と利益は比例しないことも知らない(売り上げなくとも利益を追求していれば儲かっている)。年収だって「自分で決めるもの」という意識もない(会社が儲かっているかと、社長の年収が高いかは別。社長は全体をみて報酬を決める)。

だから、想像力が足りない部分があるなと思うのです。

そういう場では、だいたいニコニコヘコヘコしてるので、なんでいるの的な目でみられる時もあるのですが、まぁそれはそれで。

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さてさて、今日のテーマは「お金について」。

お金は実に不思議なもので、一言で特性は言えないのですが、私のなかで確信していることが2つ。

①動かさなければ、増えない

②与えることで、与えられる

ということ。

まず1つ目ですが、まぁこれはなんとなくわかると思います。今投資が話題ですが、それは「お金を動かす」ことの代表例ですね。

ここでの「動かす」は頭でも体でもいい。自分の体を投資する。これが労働。

モノを動かすのも一つの方法です。
この好例は、安く仕入れて高く売る転売…ではなく、昔話の「わらしべ長者」です。

わらしべ長者はご存知ですか。

昔、ある一人の貧乏な男がいた。毎日真面目に働いても暮らしが良くならないので貧乏から何とかして逃れようと観音様に願をかけたところ、「初めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい」とのお告げをもらった。男は観音堂から出るやいなや石につまずいて転び、偶然1本の藁しべ(藁)に手が触れた。…そのワラを物々交換を経ていくにつれて、最後には大金持ちになる話である。(Wikipediaより)

ワラを掴んだ若者は、ワラをアブ付きのワラ、反物、馬と、どんどんハイグレードなものと交換していきます。

そして最後、「家」と交換し、そこに住み着いた時点で、物語は幕を閉じます。

そう。これで終わり。

裕福になりたいという思いを持った若者の旅。
それが突如、「家」で終わります。

それは、家が「不動産」だから。 
面白いですね。

不動産だから動かせない。動かさないと、富が増えない。「そのままにする」ことを選択した時点で、「ストーリーが始まらない」。

この話は、「動かさなければ増えない」という、
お金の本質をついていると思います。

ちなみに、この話が面白いのは、お金の側面においてだけじゃありません。

神様はなぜ「そのまま真面目に働きなさい」と言うのではなく、違うことをするよう指示したのか。そして、それを「素直に」実行した若者に、なぜ福音が訪れたのか……。

色々興味深いんです。わらしべ長者って。

この物語の教訓のひとつは、「お金は、ヒト・モノ・カネを動かさないと増えない」ということだと思います。
当たり前っちゃー当たり前なんだけど。

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さてさて、2つ目。与えることで、与えられる。

これはなぜだか、そうなんです。与えることで、なぜか与えられるんです。これは私の経験から言っています。

キリストは言いました。「隣人を愛せよ」と。愛するとは、与えること。宗教にあまり詳しくないのですが、この場合の「隣人」は「自分を取り巻く人々」だと勝手に解釈しています。

キリストは、「パンでも水でも、独り占めしないで、与えた方がいいよ。近くの人でいいから」と言っているふうに聞こえる。

そしてその先には「求めよ、さらば与えられん」という言葉があります。

お金には(人生でもそうかもしれませんが)、
<与える→求める→与えられる>という循環があると思うのです。

わらしべ長者も、「持ち物を与える」ことからスタートしました。
与えることと動かすことは、つながっていますね。

動線の起点を、つくりだす。
何かが動き出す。
壮大なストーリーが幕を開ける。
そんな風に思うのです。

私もこの「与える」は常々意識しています。

小さなところでは、よく飲み会の幹事をやったり、チャンスがあれば会の司会をやっています。(これもみんなに与えることのひとつだと思います)
そうすると、私の存在はみんなの頭の片隅に常にあるので、逆に何かの機会で名前が呼ばれやすくなる。

加えて、できる限り、人と人を紹介したりつなげたりしようとしています。
そうすると、たくさんの知り合いがいる人=仕事の相談をしやすい人、となり、いつかお金に変わるような(変わらなくてもいいんだけど。善意だし)出会いも生まれてきます。

あと寄付も。高校1年生の頃、ローリングストーンという雑誌を読んでいた時、「自分が大人になったと思った瞬間」という特集をやっていました。

いろんな人が「大人になったと思った瞬間」を語っているのですが、一人、無名の編集者が、「阪神大震災の復興で、10万円寄付したとき、大人になったと思った」と語っていました。

これを見て「かっこいいな」と思った私は、自分が起業して一期目の終わり、20代の最後に、豪雨被害にあった地域にポケットマネーから10万円募金しました。

なんか、そういうことをしてると、巡り巡って返ってくる気がするんです。10万円が20万円になって返ってくるのか、どこかの知らない誰かが「ありがとう」って暖かい寝床で呟いた呟きを、巡り巡って知ることができるのか。
どうなるかは、わからないけれど。

そもそも寄付なので、本来は返ってくるとかはどうでもいい。「俺は20代の最後に、10万円寄付をしたことがある」という誇りに思えることができただけで幸せなのです。
大した額ではないけど、当時の自分からしたら、税金も外注にも支払って、最後自分の給料振り込んださらにそこから10万円捻りだすっていうのは、勇気がいることだったから。
胸を張れることをしたと思っています。

そういうお金を使って胸を張れることができた時点で、「返ってきた」とも取れるし、逆に人やモノを「与える」ことで、お金が返ってくることもある。

「そんなん証明できんのかよ」と言われると困っちゃうんですけど。経験則的に正しいこととして、この原則は私のなかに根付いています。

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①動かさなければ、増えない

②与えることで、与えられる

この2つは、たしかなことだと思います。

こんなことを頭の片隅におきながら、日々の仕事に向き合うと、
幸せな仕事人生が送れるのかな〜という気がしています。

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