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平和を願った新美南吉「アブジのくに」
新美南吉は、愛知県半田市が生んだ有名な人気童話作家である。「ごん狐」や「手ぶくろを買いに」で有名な人気童話作家である。
南吉の作品には、生まれ育った故郷の風景がよく登場する。優秀な成績で小学校を卒業し、半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)に入学。幼い頃から創作活動に励んだという。児童雑誌『赤い鳥』への投稿を機に児童文学者・巽聖歌に見いだされ、1932(昭和7)年、東京外国語学校に入学。4年間の学生生活は、南吉を大いに成長させた。肺の病いで帰郷後、苦難の末、1938(昭和13)年、安城高等女学校に職を得た南吉は、教師として作家として、充実した時を送る。おそらくこの頃が南吉にとって一番幸せな時期だったのではないだろうか。だが、時代は戦争へと突き進む。自由に作品が発表できない戦争の時代、南吉はこれをいかに乗り越えるか、苦悩の中で社会の矛盾、平和にも目を向けていた。戦争の時代を生きた南吉の心の奥底にあったのは非戦と平和への願いだった。
あまり知られていない作品だが、1935(昭和10)年に書いた童話に「ひろったラッパ」がある。これは当時の日本軍の中国(満州)への武力侵略・横暴を勇敢に批判した作品である。平和を願った南吉ならではの反戦童話だ。この作品の中で、中国人農民を思わせる老人は「(田畑を荒らされ)戦争はもうたくさんです」と嘆くのだ。戦前は発表できず、平和への願いを心に秘めて、南吉は太平洋戦争最中の1943(昭和18)年、29歳の若さで病死したのである。
「ひろったらっぱ」という作品は、拾ったラッパを戦場で使って手柄を立てようとした若者が戦争で農地を荒らされて苦しむ農民の姿を見て、ラッパで農民を励ましながら復興を手助けするストーリーで、戦後に公表されたものだ。また、南吉が教員時代に付けていた日記には、「われわれ教員は喇叭手に似ている。政府がA曲を吹けといえばいやでもA曲を、B曲を吹けといえば嫌いでもB曲を吹かねばならぬ」と記していて、強化されていった戦時体制に疑問を抱いていた様子がうかがえる。「ひろったらっぱ」が初めて活字になったのは、南吉の死から5年経った1948(昭和23)年だった。この作品をいま、子どもたちに読ませたいと願う人は多いだろう。
格差、弱者、貧困、戦争に対する批判的な思想を心に秘め、童話作品の中にその思想を盛り込んだ新美南吉の作品の中には、朝鮮人との交流を描く「アブジのくに」という童話がある。
村の履物店に出稼ぎ朝鮮人親子が買物にきた。店の小母さん(南吉の母)は、女の子を可愛がり、片言で会話をする様子を暖かなまなざしで描く。
1930(昭和5)年、南吉が17歳の頃の写実的な作品だ。この作品が執筆された20年前の1910年、帝国主義日本は軍事力を背景に、独立国であった大韓帝国(それ以前は李氏朝鮮)を侵略併合し、日本の植民地にした。日本の領土にされた朝鮮半島の人々は経済的に困窮し、職を求めて日本内地にて出稼ぎをせざるを得なかった。南吉が朝鮮人親子と出会った1930年当時の愛知県には約3万5千人の朝鮮人が居住していた記録がある。日本に来た朝鮮半島の人々の多くは、鉱山、ダム、鉄道工事などの土木建設に低賃金で過酷な労働に従事させられ、「飯場」と呼ばれる粗末な作業小屋で集団生活せざるを得なかった。家族ぐるみで来日した人たちは、苦しい生活の中でも子どもを近くの小学校に通学させた。不自由な言葉や粗末な服装などのために、朝鮮半島の子どもたちは日本の子どもたちから差別され、ひどいイジメを受けることが少なくななかった。
1930年当時、現在の名古屋鉄道河和線の鉄道工事が半田市郊外で行われ、出稼ぎ朝鮮人労働者の宿舎が南吉の生家付近にあった。下宿部屋を営む南吉の母と朝鮮人家族との交流が生まれた。同じ1930年、現・飯田線の工事に従事していた出稼朝鮮人が賃上げ要求の争議を行った。警察は無抵抗の朝鮮の人たち450人を逮捕、弾圧した。在日朝鮮人の人権は完全に無視されていた。
南吉の母親は小さな下駄屋(履物店)を営んでいたので、店には飯場の朝鮮人が子どもを連れて地下足袋などを求めによく訪れたようだ。南吉の母親は何の差別もせず、温かく彼らを迎え、その子どもを「かわいい」と褒め、同じ庶民の客として接した。
2015(平成27)年、「アブジのくに」の翻訳版が韓国で出版されたと知った。翻訳した韓国人の日本近代文学研究者は、「立場や国境を越えた南吉の精神を学びたい」と話す。日本でもあまり知られていないこの作品を翻訳したのは、韓国の全南科学大学校の金正勲副教授。前年夏に半田市の市民団体から紹介され、「差別なく朝鮮人親子を見る南吉に驚いた。何としても韓国で出版しよう。」と、翻訳者が得る印税を初版と再版について放棄することを条件に出版社と契約したという。この翻訳本にはほか5作品も収録。日露戦争時に日本軍少佐を助けた中国人少年を描いた「張紅倫」(1929年)や、兵を鼓舞するためでなく戦争で疲弊した農民のためにラッパを吹く青年の物語「ひろったラッパ」(1935年)などで、年表や解説も加えた。
金副教授は、南吉を「国家主義と戦争が強調された時期に、全く違う地位や環境の人たちが心を分かち合い、交流する姿を描いた作家」と評価。特に韓国の若い世代に読んでもらいたいといい、「私たちは南吉の精神を学ぶ時」と話している。
新美南吉の心の奥底には、平和を願う気持ちはもちろん、十五年戦争開始直前の時期に当時の朝鮮人や中国人に対する偏見や民族蔑視の風潮に対する異議申し立ての作品である。アジアの民衆と同じ人間として交流し、友好の大切さを伝えようとした数少ない戦前の作品である。それが、戦後70年経って、韓国での新美南吉童話の出版へとつながったのが素晴らしい。
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この夏は、妻と一緒に愛知県半田市を訪れる機会が何度かあったので、新美南吉が眠るお墓をお参りさせていただいた。
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