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全身タイツを着る勇気をくれたおばあちゃんの言葉。

全身タイツが大好きだ。
ピチッとしたサイズ感と、シンプルイズベストなカラーリングがクールだし、一枚でビシッとキマるあの感じもたまらない。

学生時代にカメラを購入し、自分で自分を撮る「セルフポートレート」を制作するようになって以降、全身タイツもその手段として用いるようになった。

三脚を立て、全身タイツを着用し、ポーズを取る。いささか人の視線を集めそうな行為に思えるだろう。実際、視線は良く浴びる。元来シャイで、恥ずかしがり屋で、人目をとても気にする僕にとって、相当メンタルを消耗する行為だ。我ながらよくやるもんだ……と思ったりもする。

そんな自意識過剰な僕が、「全身タイツで自撮り」という恥ずかしさの極致的な作品制作に臨めているのは、子供の頃におばあちゃんからもらったある言葉のおかげだ。

それは僕が中学1年生の時。

よく晴れたある日、おばあちゃんと岡山市内にあるドームに遊びに来ていた。その日はドーム前で催し物が開かれており、様々な屋台や施設が立ち並び賑わっていた。中でも一際目を引いたのが、仮設のボルダリング。カラフルな岩と直立した壁、それに抗うように登る子どもたちの姿を見て、無垢だった僕は目を輝かせた。

しかしボルダリングの周囲にはもうすでにたくさんの子どもたちが集まっている。万が一失敗しようものなら、みんなから笑われてしまうだろう……。大勢に混ざって登るなどとても考えられず、挑戦するにはいささかハードル高い。湧き上がった好奇心も、転がり落ちるように失われていった。

そうとは知らず、おばあちゃんは僕に声をかける。

祖母:面白そうね! しょうたくんも登ってみたら?
僕:いいよ……。失敗したら恥ずかしいし……。

するとおばあちゃんは、

祖母:なんじゃ! 失敗してもえかろうが! ここにおる人らとはもう二度と会うこともねぇんじゃけぇ、そんなもん気にせんでえぇんじゃ!!

と、強烈な言葉を僕に浴びせた。
これにはとても驚いた。

というのも、おばあちゃんは普段フニャフニャしてて面白い人なのだ。

好きなテレビの話や日々の出来事など、オチのない話をとにかくよく喋る。「ツッツッツッ!」みたいな独特な笑い方をするし、メールアドレスは山好きが高じて百名山で埋め尽くされるなど、ツッコミどころが多く、天然だ。そんでもって孫にはトコトン甘い。一方で、納豆入りの餃子や干しブドウ入りのチャーハンなど、常識に囚われず突拍子のないことをするのも相まってとてもユニークだ。

そんなフニャフニャして隙だらけのおばあちゃんから、あんな言葉が出るなんて。元より岡山弁は語気が強まる傾向にあるが、それを差し置いてもこれには驚いた。普段とのギャップからこの一言は落雷のようにも感じた。「晴天の霹靂」とはこれまさにだ。

おばあちゃんの言葉は子供ながらに納得できたし、「一理あるな」と腑に落ちた感覚を今でも覚えている。とはいえまだまだ恥ずかしさが勝る年頃。結局ボルダリングには挑戦出来なかった。

だが、この言葉は時間を経てから本領を発揮し始めた。

例えば、全校生徒の前でダンスをした18歳の時。普段の大人しい自分とは違う自分を見せることで、クラスメイトはどんな印象を抱くのだろう、と周囲の反応を気にした。
例えば、何十人という経営者の前でプレゼンをした21歳の時。「所詮学生のアイディアだな」と見下される不安がよぎった。
例えば、初めてヒッチハイクに挑戦した22歳の時。通り過ぎる車から放たれる、突き刺す視線はチクリチクリと心に刺さり、早々に家に帰りたくなった。

時に大衆に晒され、時にプレッシャーに押しつぶされそうになる……、そんな逃げ出したくなるような場面と幾度となく相見えてきた。元来、気の弱かった僕には到底耐えられないような修羅場もたくさんあったように思う。だが、いずれも乗り越えてきた。満足のいく経験だと思えるほどにはやり切れた気がする。なぜか? それは「二度と会うこともねぇ人のことなんか気にすんな」と教えてくれた、おばあちゃんの言葉に支えられたからである。

年齢に応じて挑戦の規模は大きくなる。期待や注目など周りを巻き込んでいくことも多くなるし、その分失敗した時のリスクも大きくなるだろう。だが、人目を気にして小さくなったって仕方ない。自分が思っているより他人は他人に興味がないし、自分のことなんて忘れていってしまう。不必要な自意識は取っ払って、やりたいことをやればいい。そう思えるくらいの耐性が僕にも付いた。これもやっぱりおばあちゃんの言葉の存在が大きいのだ。

あの言葉から15年が経った。
78歳になったおばあちゃんは、今でもすこぶる元気だ。

だが、少しだけ変わった。
たまに会う孫を見るや否や「あぁ〜もぅ〜しょうたくん〜うぅぅ〜よぅ来てくれたわねぇ〜」と、毎度嬉しさや感動でトロけそうになりながら僕を迎えてくれる。子どもの頃よりフニャフニャしている気がするが、世のおばあちゃんってそんなものなのだろうか? かつて雷鳴を轟かせたあの勇姿は、当時以上に想像できない。きっと本人はそんなことを言った記憶すらないんだろう。それならそれで構わない。
様々な困難を超えて行く支えとして、あなたからもらった落雷のような言葉は、今でも僕のそばにある。

この記事を読んでくれている方を始め、二度と会うかもわからない人たちの記憶にも残るような作品を目指し、今日もまたセルフポートレートという恥ずかしさの極致に挑もう。おばあちゃんの言葉と共に。


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※今回の記事は天狼院書店のHPでも掲載していただいています。
http://tenro-in.com/mediagp/174315?fbclid=IwAR2FbRRqLJEhrB9woqGjZsq2N7_R7uGy-simX2AMUpS_8ad5M78F9sMZfBA

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