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おおつちくらし - 9月のこと。|Syota Ito

■やってみたいをカタチにする地域チャレンジプログラム「ワカモノカケル」現地実習を実施しました

9月1日〜7日の1週間、大槌町を舞台に、やってみたいをカタチにする地域チャレンジプログラム「ワカモノカケル」現地実習を実施しました。約2ヶ月以上をかけてオンラインでの事前研修を重ね、自分がやりたいこと・自分は何者なのかを知り、そのうえで大槌町という見知らぬ地域で1週間暮らし、自分たちに何ができるか?を考え実行していく このプログラム。

中には岩手県や東北へ来ること自体初めての参加者もいたり、大学で地域づくりを学んでいて より現場で学びを深めたいという参加者もいたり。熱量と志は様々あれど、「自分のやりたいことを見つけて、カタチにしたい」という想いはみな共通していて。なので、現地に来る前から(来る途中の電車から)すでに仲良くなっている子たちもちらほら。(これが事前研修の効果でもある)

1日目〜2日目では、町の雰囲気や成り立ちを知るフィールドワーク、地域パートナーである地域事業者さんのもとで1Dayインターン を行います。その後、自分で見て感じた大槌、体験活動を通して感じた大槌をもとに「学びの洗い出し」「理想の大槌とは?」「大槌の魅力と課題とは?」などのオリジナルワークショップを行い、インプットをアウトプット(言語化)していきます。

3日目〜4日目では、アウトプットした学び・思考を 収束させていくワークショップを実施し、各チーム(今回は3人1組の3チーム)で「自分たちのやりたいこと×地域のやりたいこと」を考えていきます。それを企画として落とし込み、アクションまで持っていく準備を進めていきます。

このあたりから、各チームごとの進み具合や動き方に違いが出てくる(チームの自我)ところが面白い。ある意味、このプログラムのハードルでもある部分。理想と現実、実現性、協力者、情報量と情報質、限られた時間とリソース etc…。このあたりをメンバー同士でぐるぐるしあうことで、悩みつつも前に進もうとする行動そのものが 皆を日に日に成長させていく。運営として見ていてもわかるくらいに。

そして、そのハードルをチームのみんなと乗り越え、5日目の企画アクションを迎える。全てを出し切る想いで実施するからこそ、流れる涙があったりもする。やりきったあとの達成感は何事にも変え難いし、そこから得た学びは人生を変えたりもする。

そして、6日目には町民向けの活動報告会。各チームの活動結果と個人ごとの学びと想いをシェアしてもらう場。ここで、町民のみなさんに参加者たちの「成果」を見てほしいとはぶっちゃけ思っていなくて。

「成果」よりも、大学生の夏休みという貴重な時間を費やし、見知らぬ大槌に飛び込み、1週間でやりたいことと地域の課題を見つけ企画アクションまで持ってきた、彼ら彼女らの「勇姿」を見てほしい、と僕は思っていて。

人は、社会に出ると「成果」を重視される世界に身を置くことになる。「成果」が評価のもとになり、それを生み出した「姿勢」やスタンスにはあまり目が向けられない。一方で、日本の教育は、「結果」よりも「姿勢」を教えようとする風潮があると感じる。努力すること や 仲間を作ること、好きを見つけること、諦めないで続けること。そういう「自分が納得する結果に結びつく姿勢」の大切さを教えるのが 日本の教育かなと。

僕は、ここにギャップがあるよな、と日々感じていて。
姿勢を教えられた子供時代。でも、社会に出ると 姿勢よりも成果が全て。このギャップに人はやられてしまうのではないか。「社会はそういうものだ」「社会に出たら好きなことなんてやってられない」、そういう無意識の諦めが当たり前になってしまうのかなと感じていて。

それでは社会は良くならない。
地域も良くならない。
人も育たない。

だから、僕は この現状に風穴を開けたい。
本気でそう思っています。

好きを見つけること。好きをやってみること。好きを続けること。
それが必ず、地域を、社会を良くする。

「このプログラムに参加して、また大槌に来たい!って思いました」
「自分ではわからなかった自分に出会うことができた」
「仲間ができた。仲間と熱中することの楽しさを知った」
「視点が増えたし変わった。自分のやりたいことが見えてきた気がする」

1週間、本気で好きと生きた参加者たちは、たくさんの気づきと仲間を得ることができました。そして、大槌のことも好きになってくれました。

ワカモノカケルは、その実証実験なのかもしれません。少しずつですが、灯火は生まれてきています。好きと生きようとするピュアな想いを持った人たちを、共に支え賞賛しあえる社会をここから生み出していきたいと思っています。

■日々是、農業

【 人も自然に 】

「自分は何をカタチにしたいんだろう?」

畑にいる時、最近いつも考えています。
もともと物事や人を善悪で見たり判断することをしない(する意味を感じていない)タイプだった自分。だけど、個人で生業をつくるようになったり、会社を立ち上げて仕事するようになって、いろいろな人の思考や言動に翻弄され、否応なしに善悪でくくられてしまう(巻き込まれる?)状況が増えたりもしていて。

僕はめちゃくちゃ田舎で育ったこともあって 自然が好きだし自然と生きてきた人だから、物事には何かしらの意味があって(意味がなくても意味がないという意味がある的な)自然に成り立っている、という前提のマインドセットがある。

農業もそう。僕の栽培は、化学肥料も農薬も使わない。草も適度に生やして、生き物の多様性を活かしている。ある野菜にとっては害虫と言われる虫も、他の野菜にとっては益虫になったり、他の生物の餌になったりもする。雑草を敵と思ったことはないし、雑草さえも堆肥にして土に還す。

「まあ人それぞれだよね」
「いらないものなんてないよね」
「みんな違うからこそ助け合って生きていけばいいよね」

そんな自分だったのに、善悪に振り回される(その思考に陥ってしまう)状況は、なんかやっぱり”いずい”なあと感じていて。

なぜ、人は善悪を持ち込みだがるのだろうか。

誰だって、お前は悪だ!と決めつけられたくないはずなのに。そこにはきっと、「自分は悪くない」を証明する(自分に言い聞かせる)ために 先手で善悪を持ち込んでいるのかなと。その時点で、自分がされたくないことを相手に持ち込んでいることに気づけないと、この負の連鎖は続くだけだと思う。

「自分を守るために相手を下げる」ではなく、
「自分を生きるために相手を活かす」こと。

そこに善悪なんてものは必要ないし、自然のように共に活かしあえる「共生」になるのだと思う。それが人として、地域として、「しなやかな強さ」になるのだと思う。

その先にはきっと、「好きと生きる」社会がカタチになっているのかなと思っています。


【 僕なりの農業をカタチに 】

今、僕が農業をしている場所は里山地域、いわゆる典型的な中山間過疎地域です。周囲を山に囲まれていて、ぶっちゃけ、農業に適している場所とは言い難い。山に囲まれているので害獣被害も多く、対策にかかる費用も馬鹿にならない。

「そんなところで農業するなら、内陸の広いところで農業やったら?」
「海の町で、しかも山間地で農業なんて、限界あるでしょ」

協力隊になってから何度言われたことか。自分でもそう思う時が正直あります。農地は飛び地だし一つ一つが小さいし、ゆえに借りるにしても利害関係者が増えざるを得ない。"これまでの農業"なら、明らかに合理的ではない。(だから、中山間過疎地域の農業は衰退し担い手がなく、農地は荒れ果てていっているのだと思う。)

そこで、考え方を変えてみることにしました。

農業を生業にする、となると「農業だけで食っていく」という思考がまだまだ強い農業界。ある意味、職人気質が根強いところがある。一方で、兼業農家というスタイルは以前からあり、サラリーマンをしながら農業をするサブビジネス的な要素が強い。しかも、兼業農家は米農家に多く、畑作農家はあまりいない。

これらを踏まえて"新しい農業のカタチ"を考えてみた時、その中間にあたる
「生業としての半農半X」(生業型 半農半X)
を作れないか?と考えました。

半農半Xという言葉は、どちらかというと幸福度を上げるための概念として使われることが多く、日々の暮らしに農を入れることで幸福度を上げることに繋がるという考え方。それを幸福観点だけではなく、生業として成立させることができるのではないか?と考えました。

実際に、農業の他にサブビジネスをしている農家はいます。いわゆる百姓というやつです。ただ、それを「農収益が足りないから他で補う」という思考だけでなく、
「自分の好きなこと(X)をしながら、農業でも収益を上げる。そして、好きなこと(X)と農業を掛け合わせた"自分なりの農スタイル"をつくる」
ということを念頭においた農家を増やしていくこと、そんな農スタイルを確立していくことが、中山間過疎地域の希望の光になる、と僕は思っています。

このモデル(さともり構想)が確立すれば、どんな過疎地域でも、好きと生きていくことができる。さともり社のスローガンである「好きと生きる」が社会に実装される一歩目になる。

そう信じて、僕は僕なりの歩みで、中山間過疎地域、里山地域と向き合っていきます。

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