教育学部で大学教授になるのは、かなりだるそうな理由

今学期は、私の専攻の必修科目の最難関と言われる「教育の政治学」を受講しているわけですが、ユニセフと世銀で実務家として10年間働いた私からすると、なぜある教育プロジェクトが上手くいかないのかを理論的に検証する形になる授業で、かなり面白いです。

ちょうど先週は、なぜリサーチが政策に活かされないのかを勉強したのですが、その中で教育学部内の問題を扱っているペーパーがあって興味深かったのですが、以下がその問題点の要約です(高校以下と大学の教員を分けるために、前者を先生、後者を教授と便宜上分けますが、話を進めて行くうえでの両者の混乱を避ける以外に特に深い意味はありません。)。


①科学と実践のジレンマ

教育学部も大学機構の一部なので、他学部の教授がそうであるように、科学的であることが求められます。それと同時に、教育学部の教授には、先生の日々の教育実践のサポートになるような研究も求められますし、学生たちが先生になった時に役立つような知識も教えなければなりませんが、その大半は科学的に検証できないようなものも含まれます(例えば、ある教授法に効果が認められるかどうかRCTを使って検証、というのはちょっと考えづらいですよね)。このような教育学部の教授が直面する科学と実践の間のジレンマは、経済学部で教授になった時には直面しない、ないしは直面したとしても教育学部の教授のそれとは比較にならないぐらい小さなものであるはずです。

そして、この対立は地方と中央という政策アリーナの違いによっても激化します。中央レベルで議論するような論文の場合、一般化できるか否か、言い換えると科学的に厳密かどうかが重要な争点になりますが、地方(例えば名古屋市の教育委員会のメンバーが言及したいような研究)の場合、そこですぐ役に立つことが重要なので、科学としての教育研究よりは、実践としての教育研究の方が重要になります。

そして、残念なことに、教育学部の教授が科学に舵を切った場合には他分野の教授から科学的厳密さが足りないと指摘されるのは明白ですし、実践に舵を切った場合にも現場の先生から現実離れして役に立たないと非難されるのは予想の範疇です。どちらに転んでも教育学部の教授は厳密さが足りないと非難されるわけです。これはつらい。


②科学としての教育の多様さ

教育学は他の社会科学と異なり、分析対象を指す名称であり、分析ツールを指す名称ではありません。例えばうちのNGOのブログの筆者カテゴリーが象徴的ですが、経済学だったり社会学だったり、色んな分野が教育学部の中に存在しているわけで、この異分野間で異種格闘技戦の様になれば良いのですが、現実的にはアントニオ猪木vsモハメドアリ戦になるのが関の山です(この試合をご存じない方はwikipediaを参照ください、他に良い例が浮かばなかった格闘バカですすいません、苦笑)。

例えば少人数学級についての議論になった時、私の分野であれば、QJE(Quarterly Journal Economics)に掲載されたAngrist and Lavy論文と、Econometricaに掲載されたRivkin, Hanushek, and Kain論文と、RCTが行われたテネシーのプロジェクト・スターに関する論文達は欠かせません。しかし、教育学部の中に教育政策専攻があったり、公共政策大学院で教育学部の先生が授業を持ったりする米国ならまだしも、日本に教育学部の教授が何万人いるか知りませんが、QJEやエコノメトリカを読んでいる教授は殆どいないんじゃないかなと思います。逆もまた然りで、きっと私が名前も聞いたことがないようなジャーナルで少人数学級について定性的に議論しているペーパーもきっとあるはずです。

つまり、経済学部であれば教授間で同じ土俵の上で議論が出来るテーマでも、これが教育学部となると教授たちが同じ土俵に立つことは殆どなくなるわけです。これが科学としての教育学部の弱さにもつながるわけですが…。


③ジャーナル間のヒエラルキーの欠如

少人数学級に関する論文を持っている経済学部の教授は何人もいるわけですが、なぜ先ほど紹介した二つの論文は特に引用されるかというと、経済学ではジャーナル間にかなり明確なヒエラルキーがあり(これが医療分野にも当てはまりますが)、QJEとエコノメトリカはその頂点に君臨するジャーナルだから、という点があります。つまり、ある政策について議論が割れた時に、とりあえずトップランクのジャーナルに掲載されている論文を当たって決めるという方法が他分野であればできるのですが、こと教育分野になると、前述の分野の多様性もあって、ジャーナル間にヒエラルキーが存在しないか、あったとしても極々一分野内のものでしかありません。このため、そもそも違う土俵で戦っていて議論がかみ合わないのに、それを裁定する手段がないということになります。


④利益相反の問題

最近Twitter上でも、有名な医療政策・医療経済学の教授が医療分野の研究での利益相反について度々言及していますが(タバコ会社が研究資金を出しているペーパーなど)、教育分野でも近年民営化の進展とともに、プライベートからの研究資金の流入が大きくなっており、この利益相反について注意をする必要があるのですが、教育分野が置かれている環境は、下記の理由から他分野以上に複雑なのです。

医療分野であれば、タバコやアルコールなど明らかに問題がある研究資金の出先があるから良いのですが、教育の場合、例えばチャータースクールの運営団体が研究資金を出して、その効果を検証させた場合、タバコ会社ほどには利益相反が見えやすくありません。実際に、アメリカではある研究者が効果がないというペーパーを発表しようとしたところ、訴訟をちらつかされて脅されたなんて話もあって、看過できない問題ではあるのですが。これに加えて、教育の民営化は近年劇的に進み始めた現象なので、教育学部内で研究資金の利益相反に関するガイドラインの整備が、医学部のそれよりも進んでいません。

ちょうどうちのNGOのブログでも、インターンの方がリテラチャーレビューについて記事をアップしてくれたところですが、うちのNGOで使っている先行研究分析のマトリックスの中に、研究資金の出先も加えた方が良いのではないか?、なんてことも議論している所です。

なんにせよこの問題は、議論に決着をつけようがない状況に、ポジショントークを持ち込む輩を連れてくるわけで、なんかもうとにかく収拾がつかなくなるわけです。


こんな感じで、教育学部の教授たちは、他学部の教授たちと異なる特異な問題に直面しているわけです。実際にこの教授も教育学部のテニュアトラックは上記のようなブービートラップが多いのでかなりきついし、特に科学と実践のジレンマの所で実践に拠れるのは有名大学のフルプロフェッサーぐらいで、テニュアトラックの人が実践に寄ったら自爆すると言ってて、私のように、教育学部以外の学部にも就職する可能性があったり、民間に行く可能性もある人からすると、この教育学部に特異な問題は…教授を目指そうかなと考えるとかなりだるいです。。。

そもそも教育の政治学で不可って退学するから、教育学部で教授を目指せないんじゃね?、というツッコミは受け付けていないので…、頑張ろう。。。

サルタック・シクシャは、ネパールの不利な環境にある子供達にエビデンスに基づいた良質な教育を届けるために活動していて、現在は学校閉鎖中の子供達の学びを止めないよう支援を行っています。100円のサポートで1冊の本を子供達に届ける事ができます。どうぞよろしくお願いします。