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インディアンの子供達を「殺した」教育ーアリゾナ日記第1夜

さて、インディアンの子供達を殺した教育から、現代への教育政策的な示唆を得ようというこのシリーズですが、今回はその教育政策的な背景を中心に、アメリカン・インディアン政策的な背景も紹介していこうと思います。教育政策的な背景は、授業のノートを基に話を進めていきますが、授業では数多くの論文と本を読まされましたが、その授業を担当したSedlak先生が執筆した「Education in the United States : an interpretive history」を読んでおけば、大体の話は追えるかなと思います。

1.インディアン寄宿学校の教育的背景の背景

まず、インディアン寄宿学校が教育政策的に実施されるに至るまでの、米国の教育政策史を非常に簡潔に説明したいと思います。件のSedlak先生の授業によると、アメリカの教育は以下の5つの年代に分けられます。

①1780-1815年:アメリカ独立からコモンスクール運動前夜

②1815-1860年:米英戦争終結とコモンスクール運動

③1880-1930年:進歩主義時代の教育

④1945-1980年:アメリカの黄金時代と教育

⑤1980年-: 教育における経済主義の時代

第一年代は、米国に人が移住するようになってきてから、米英戦争終結までを指します。この第一年代の頃には、まだ公教育制度が実質的には成立しておらず、家庭や教会、現在にも一部が残っている私立学校(ハーバード大学などのアイビーリーグの大学の一部や、東海岸に見られるエリート寄宿学校がこれですね)が教育の主な担い手でした。

このため、教育の目的も、エリート層にとってはそのエリート的地位を子弟に引き継ぐための装置でしたし、非エリート層にとってはプロテスタント的価値観を身に付けるための物でした、とは言え非エリート層の殆どは全く教育を受けていないか、受けていても数年程度という物でしたが。

第二年代は、米英戦争終結から19世紀中ごろまでを指します。第二年代の特徴は、公教育が成立した点に尽きます。そして、この公教育制度拡大のプロセスをCommon School Movementといいます。このCommon Schoolの原型はホーレス・マンという人によってボストンで作られました。第一年代と異なり、州政府が教育に介入するようになったというのが大きな特徴で、カリキュラム・学校設備・教授法といった要素が州内で統一されていきました。

20世紀に富国強兵を合言葉に日本でも公教育が拡大したように、アメリカのCommon School Movementも似たような動機で拡大していきました。第一に、教育によって労働生産性を高めたいという動機でした。教育によって識字や規律を守るという事が身に付きますが、これらは米英戦争後に米国経済を欧州依存から脱却させるために拡大した工業分野で働く労働者の生産性を高めるには欠かせない物でした。第二に、民主主義の維持です。アメリカの教育システムが分権的かつ固定資産税と紐づいてしまっているのは、教育のためのお金をみんなで話し合って集めて、使い方も話し合って決めるという、民主主義の学校として教育を機能させるためでした。確かにこれは民主主義をはぐぐむという目的には適したシステムですが、近年になって教育の目的が経済的な所が大きくなり、これが社会格差維持システムに堕してしまったのは何とも皮肉なものです。第三に、米英戦争終結後に急増した欧州からの移民を教育を通じてアメリカ社会へ統合することです。しかし、これには大いに苦戦することになりました。なぜなら、移民流入前のアメリカの教育はプロテスタント的価値観に基づいたものでしたが、この移民の多くはカトリックだったからです。このキリスト教内の宗派の違いは簡単には乗り越えられず、この困難が第三世代を生み出す一つの原動力となっていきました。

このように、第二世代のアメリカの教育は、公教育制度が成立拡大し、それが社会改善のために使われた、というのが大きな特徴として挙げられます。

2. インディアン寄宿学校の教育的背景

インディアン寄宿学校が成立・拡大していくのは、上の教育時代分類に基づけば、第三世代に当たります。この第三世代の特徴は、アメリカが革新主義の時代にあったという所にあります。この革新主義の時代に、アメリカは社会をどんどん改善・効率化していこうと、様々な分野で改革が進み、教育分野もその例外ではありませんでした。

革新主義時代以前の教育は、現代風に言えば非常にアカデミックアカデミックしたもので、全然実社会で役立たないにもかかわらず、全ての生徒がラテン語を学ぶべきだといった、これも現代風に言えば非常に効率の悪い物でした。しかし、この第三世代になると、全ての子供がラテン語を学ばなくても良いよね、むしろ職業技術教育の方が役に立つ子供もいるよね、といった認識が広がり、画一的な教育から子供の能力に応じた教育へとシフトしていきました。これらの教育システムの改善によって進学率が飛躍的に上昇し、1940年頃には、2/3のアメリカ人が高校に進学していました。

完全に余談ですが、寺子屋があって識字率が世界的にも高い→教育立国というイメージから、日本は国民の教育水準が常に高かったかのようなイメージを持つ人もいますが、実は同時期の日本の旧制中学進学率は10%にも届いていなかったので、これだけ国民の人的資本蓄積に差があれば、戦ったらボコボコにされるよなという感じはします。

話を本題に戻しましょう。この革新主義時代の教育の特徴はもう一つあります。それは、それまでマイノリティであった子供達も、教育の多様化・教育の実務志向化により教育を受けられるようになっていった事です。最も顕著に良くなったのは、移民の子供の教育です。前の世代の教育では、移民してきたカトリック教徒が、プロテスタント的な学校教育を避けてきましたが、教育の実務志向化は教育の世俗化も伴ったため、移民の子供達が公立学校にやって来るようになりました。また、この時代には女性運動の高まりもありましたが、教育においても女子が公立学校に来るようになりました。さらに、農村部の子供や労働者階級の子供などにも、教育機会が一気に拡大していきました。

つまり、アメリカにやってきた子供達の教育機会が改善したのですが、問題は、アメリカに連れてこられた子供達(黒人)とアメリカにいた子供達(アメリカン・インディアン)です。この両者は、寄宿制か寄宿制でないかの違いはあるものの、似たような経路、すなわち似たような悲劇を経験することになります。

3. インディアン寄宿学校のインディアン的背景

もちろん、アメリカン・インディアンの教育というものは存在していました。それは学校教育のようなものでは無く、長老や老人、親や大人から言い伝えや慣習を聞く、OJT的にスキルを身に付けるといったものでした。

これに変化を起こしたのが、慈善事業として学校教育を行い始めた教会です。国際教育協力をやっている人なら、アフリカに教会が進出して学校を建てたのと似ているなと思うかもしれませんが、構図としてはほぼ同じで、野蛮な現地人を教育して白人のようにしてあげようという啓蒙です。ちなみにですが、アメリカに留学したけれども「比較」は学問分野として学ばなかった人達が、「欧米では・・・なのに日本は~で遅れている」というカリフォルニアから来た娘症候群に陥るのは、依然として米国の教育には、「啓蒙」という要素が残っていて、それに当てられたからだろうと私は思っています。

教会によるアメリカン・インディアンに対する啓蒙のための学校教育が勢いづくのは1819年に制定されたCivilization Fund Actによってです。その法律の名前が示すように、アメリカン・インディアン達を白人のようにしてあげる教育に対して税金が支出されるようになりました。

これだけで終わればインディアン寄宿学校のような悲劇は防げたのかもしれませんが、そうはなりませんでした。なぜなら、土地問題が生じていたからです。アメリカン・インディアン達の土地が欲しい強欲な白人達は、ある事を思いつきました。

「そうだ、粗野で野蛮なアメリカン・インディアン達を白人のようにしてあげる代わりに、土地を貰えばいいんだ!」

ゴールドラッシュと共に土地の重要性が増していく中で、このような恐ろしいアイデアが生まれ、土地の収奪の隠れ蓑となるアメリカン・インディアン達に対する教育が広まっていきました。

しかし、何にでもバックラッシュが発生するように、この白人の強欲さにもバックラッシュが起こりました。純粋な啓蒙にだけ興味がある教会側の人達から、土地を収奪するために教育を行うのは酷いのではないか?というクレームが湧きおこり、1869年に制定されたPeace Policyの中では、教育は啓蒙という名のアメリカン・インディアンの支援のために実施するという流れが出来ました。

しかし、残念ながらこのPeace Policyの考えは短命に終わりました。理由の一つとして、これも途上国の政府機関あるあるですが、Peace Policyの導入と同時に設立されたアメリカン・インディアンの組織がキャパも無ければ腐敗も酷いという有様で、進歩主義の時代の到来とともにこれではダメだとされてしまった事が挙げられます。しかし、これはどちらかと言えば些細な理由で、やはり白人の強欲さが抑えきれずバックラッシュでこの政策がひっくり返されたのが強い原因です。この当時のアメリカン・インディアンは、「文明化か絶滅か(Civilization or Extinction)」という状況にまで追い詰められていたのです。

このようにして19世紀末の進歩主義の時代には、Common School Movementのマイノリティ達への到達と、アメリカン・インディアンの土地を収奪するための文明化と称した教育が出会い、アメリカン・インディアンの子供達を殺す教育の舞台となったインディアン寄宿学校が成立するのですが、これはまた明日のお話にしようと思います。

(フェニックスには大きなインディアン寄宿学校があったのですが、ここは本当に広大な砂漠のど真ん中にいきなり町が出現するので、何でこんな所に町があるんだと驚きました。なんとなくイエメンの風景を思い出しました)

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サルタック・シクシャは、ネパールの不利な環境にある子供達にエビデンスに基づいた良質な教育を届けるために活動していて、現在は学校閉鎖中の子供達の学びを止めないよう支援を行っています。100円のサポートで1冊の本を子供達に届ける事ができます。どうぞよろしくお願いします。