"て"のはなし:手のひらからこぼれ落ち消えゆく砂
砂遊びが大好きだった少年時代。
大人になっても海岸沿いの砂を裸足で踏みしめて歩くことが好きです。
きめ細かくサラサラな砂であればあるほど気分が上がってしまいます。
自然と手で砂をすくい上げ、風に流されていく砂を眺める。
手のひらからこぼれ落ち消えゆく砂を眺める。
そんな時間が楽しかった。
同じ経験がある方も多いかもしれません。
ふと、そんな風景を頭の中で描写すると、手のひらに残った砂よりも風や両手の隙間から旅立っていった砂が美しいなと思ったんです。
手の中に残った砂も美しいのですが、その美しさは「落ち消えゆく砂がいるからこそ引き立てられる」と感じています。
はじめは、純粋に砂に触れたいと思ってすくい上げていた。
いつしか落ち消えゆく風景の美しさを見るためにすくい上げる。
カタチ有るものではなく、カタチ無いものに美しさを感じています。
不思議な感覚です。
『海』という背景が効果的にマッチして消えていく砂をさらに美しく引き立てます。
美しさと同時に儚さも生まれる。
同じ量の砂をすくっても、風の吹き方などで、都度全く違った変化を遂げる。
あるときは少し落ちて消え、またあるときは全てが落ちて消えゆく。
その量に応じて手のひらに残る砂も変化する。
砂の言霊が何かを僕たちに伝えてくれているかのようです。
毎日生きてゆく中で、この現象は身近に起きているのではないだろうか。
そんな考えが頭の中を駆け巡りました。
その瞬間瞬間の起きた出来事に対して一生懸命になる僕たち。
その姿は美しく、結果としてはカタチ残っている事実・感情に視点を合わせる機会が多いです。
これは手のひらに残った砂と同じなのかもしれません。
でも、消え落ちていく砂が美しいように、視点を持っていくべきは事実や感情がカタチとして残る前の工程なのかもしれません。
『なぜこうなったのか?』
『この感情はなぜ生まれたのか』
この思考がカタチ有るものが出来上がるまでに存在しているはずです。
その思考に目を向けることは大切だと思っています。
手のひらに残ったカタチある砂を作り出したのは、落ちて消えゆく砂だから。
落ちて消えゆく砂がなければ、今のカタチはできていないんです。
毎日様々な結果や感情が生まれます。
全ての出来事に対して問いかけなくてもいいんです。
一日一つだけでも『落ちて消えゆく砂』に視点を当てていく。
自分がどんなことを考え、なぜそのカタチになったのか考えることは自分のためになると思います。
僕自身、一日の中で最低一つは『落ちて消えゆく砂』に視点を向けてメモをしています。
それがなかなか面白いです。
客観的に自分を見ている感覚になります。
『楽しい・悲しい・怒り』などすべての結果・感情には理由があります。
わけも分からずカッとなってしまったことも、『消え落ちた砂』を考えてみると理由が見えてくるものです。
そんな美しい場面を僕自身の中でももっと増やしていきたい。
毎日の当たり前のように起きている出来事に美しさをプラスできるように、『消え落ちた砂』を大切にしていきます。
なんだか、久しぶりに海岸で砂をすくい上げたくなったな。