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1969年のジミー・ペイジ

1969年のジミー・ペイジ

 ジミー・ペイジはニュー・ヤードバーズ(後のレッド・ツェッペリン)立ち上げの時期で忙しく、ヘンドリックスのステージを観る機会が一度もなく、会うことも出来なかったという。オレは今、ジミ・ヘンドリックスに夢中である。何年か周期でジミヘンにはまるのだ、オレは。特に、1970年にジミが他界した後、様々なアルバムで発表された楽曲をまとめ直し、生前のジミが計画していた「4枚目のスタジオ・アルバム」に近い形で1997年に発表された、「First Rays Of The New Rising Sun」は、ロックの全てが詰まった凄まじいアルバムで生前の「Are You Experienced」、「Axis: Bold as Love」、「Electric Ladyland」よりも素晴らしい。このアルバムは-Purple Haze-や-Crosstown Traffic-、-Voodoo Child- 級のナンバーが親の敵かというぐらいライン・アップされているのだ。このままジミヘンについてだらだらと書き連ねても構わないのだが、1969年のジミー・ペイジというタイトルをつけた以上、ツェッペリンのことも書くのである。

1969年のジミー・ペイジ、嗚呼、まるで1976年のアントニオ猪木みたいだ。この本はこの世に溢れかえっている猪木本の中でベストの出来ではないか。ところが1984年のUWFはワーストの出来である。1976年のアントニオ猪木のような綿密な取材もほとんどなく、単なる前田日明ディスり本なのである。ところが、1984年のUWFの反論本である、前田日明が語るUWF全史はさらにワーストの出来という悲惨な結果になっているのである。オレはアマゾン・レビューを読んで買うのをやめ、立ち読みで済ましたが、マジでくそみたいな本だったぜ。で、1969年のジミー・ペイジというタイトルをつけたオレだが期待されても困る。いつものようにオレの文章は独断と偏見に満ち満ちた単なる余興だからだ。まぁとにかくオレはジミヘンを聴く度に、ツェッペリンを連想するのである。ジミヘンは史上最高のギタリストだと思うが、バンド・アンサンブルとしてはツェッペリンのほうが上だと思う(本当は上も下も、後ろも前もないのだが、つまり比較したって仕方ないのだが)。要するにツェッペリンの凄さを再認識するためにジミヘンを聴くようなものだが、瞬間風速的にはジミヘンのナンバーはツェッペリンやストーンズを遥かに凌いでいるのである。ジミヘンはあまりに多作である。そのために早死にしたのではないかと思うくらい短期間でヴァラエティーに富んだ楽曲を作っている。

1964年1月17日 Rolling Stones デビュー
1967年5月12日 Jimi Hendrix デビュー
1969年1月12日 Led Zeppelin デビュー(活動は1968年から)

 ストーンズ→ジミヘン→ツェッペリンというデビューの順番はロック史の奇跡かも知れない。なぜ、奇跡なのか。オレの虚言&余興癖なので解明したり分析したりは今回はしない。めんどくさいから。今後もしないかもだ。

※バンドを作ろうとしてたんだ。そのバンドがどの方向に進んでいくのか、私には分かっていた。ヤードバーズでアメリカに足を運んでいたから、何がどういう状況なのかは正確に分かっていたしね。
ジミー・ペイジ

 とまあ、大風呂敷を広げといて回収するのがめんどくせぇですが、おそらくジミヘンはストーンズから音楽的影響はあまり受けていない感じがする。ストーンズのほうも、というかキースもジミヘンから刺激は受けただろうが、特別なショックは受けなかったはずだ。キースのギター・スタイルとは大きく違うし(だいたいこの時期は特にキースはディストーションなどの歪んだエフェクトは使用していない)、R&B、R&Rをストーンズなりの解釈で表現する彼らにとってジミヘンのへヴィなグィングィンいわせたロックとは一線を画していたからだ。ジミヘンに影響を受けたのは、同時期にヘヴィ・ブルース・ロックを展開していた、エリック・クラプトン(クリーム)、ジェフ・ベック(ジェフ・ベック・グループ)である。ちなみに-Sunshine of Your Love-は、クリームのメンバー3人が、ヘンドリックスのステージを鑑賞した夜、ヘンドリックスの演奏に触発されて生まれたという。

※─ヘンドリックスのライヴを初めて見たのは、いつでした?
たしか、彼の(ロンドンでの)初ライヴだったかな。クイーンズゲートにある小さな地下のクラブだった。おしゃれなクラブで、ほとんどが18から25のハットとかかぶって着飾った、女の子たちだった。当時の彼は、まだ有名じゃなかったんだ。彼が登場した時、俺は「マジかよ」って。ミリタリールックの彼の髪は、あちこちにツンツン突き立ってた。ライヴは(ボブ・ディランの)『ライク・ア・ローリング・ストーン』で始まったんだけど、「あぁ、今の俺はギタリストなんかじゃないな」って思ったね。
ジェフ・ベック

 ジミヘンの登場で廃業まで考えたという、ジェフ・ベックもクラプトンもヘヴィ・ロックを早々と卒業している。ジミヘンにはかなわないと思ったのだろうか。ツェッペリン登場の影響もあるかも知れない。

※新バンドはヤードバーズよりもへヴィな感じにするつもりだったんだ。ジェフ・ベック・グループをお手本にした可能性もあると思う。でも彼はフーやジミ・ヘンドリックスにも目を向けていたからね。
リチャード・コール

 ジミヘンと接点がなかったペイジは狂乱の1967~1968年、百花繚乱のポップ・ミュージック界を冷静に見つめていたに違いない。ジミヘンの驚異的なロックでさえ、恐れを抱かず、吸収していたのだろう。満を持して、レッド・ツェッペリン1stを1969年1月にリリースしたのである。究極の後出しジャンケンである。後出しジャンケンは絶対に勝てるのである。ただし、ペイジ、プラント、ボーナム、ジョーンズのユニットだから勝てたのである。1stはもちろんライヴの合間に録音した2ndアルバムでさえ、緻密な計算による整合感があり、しかも型破り感もあるという、バンドがどの方向に進んでいくのかわかっていたジミー・ペイジだからこその仕上がりになっているのである。そして何より音がいい。
 さて、ジミヘンはペイジやツェッペリンをどう思っていたのだろう。カーマイン・アピスによると、「みんなからパクリすぎて過積載になっている」と批判的だったらしい。批判的?いや、これ褒め言葉だろ。過積載になっている~上手い例えである。大型トラックならかなりの罰則を食らう。最大積載量を2倍以上超えるドライバーに対しては即時告発、100万以下の罰金なのである。当然ツェッペリンは最大積載量を2倍以上超えるので100万の罰金であるが、銭ゲバ・ペイジは不服として決して払わないだろう。

1969年1月 Led Zeppelin 1st.リリース
1969年8月 ウッドストック・フェスティバル(ツェッペリンは出演を断った)
1969年10月 Led Zeppelin 2st.リリース

 ヒッピー時代の頂点であり、ラブ&ピースの夢の崩壊といわれるウッドストックを、ツェッペリンは1月と10月アルバム・リリースで挟み撃ちしている。これは、何かを象徴してないか?

※1969年8月15、16、17日の三日間に渡って行われた、史上最大の「愛と平和と自由」のロック・フェスティバル「ウッド・ストック」の罪は40万人もの観客を動員してしまったことで企業や資本家、レコード会社などに「これは金になる」と気付かせてしまい、そのすぐ後、1970年にウッド・ストック同様「愛と平和と自由」を掲げ、イギリスのワイト島で開かれたロック・フェスティバルでは、ウッド・ストックを上回る60万人もの観衆から、しっかり入場料を取る事になった(ウッド・ストックは事実上無料だった)。それにより、「ロックは反・商業主義のハズだ!」という幻想から覚めぬ観衆と、ギャラを受け取る出演者との間に摩擦が起こり、「資本主義のブタ」、「そんなに金儲けしたいか」などという罵声のもとに、裏切られたと感じた観衆は暴徒と化した。フィールドを仕切る壁をぶち壊し、無秩序状態となった。この瞬間、ラブ&ピースの夢は崩壊した・・・。フェスティバルが終わってみると、そこには60万人分のゴミと、汚物と、壊された施設の残骸が残されていたと言う。それは目が覚めて、全身から力が抜け、虚脱感と不毛感に襲われた若者の心の中をそのまま映し出している様に思う。ゴミと汚物だけではない、それは夢の残骸でもあったのだ。
http://history.sakura-maru.com/woodstock.htmlより

 1969年7月6日、権威あるジャズの祭典、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」にツェッペリンは出演したが、ウッド・ストックはピーター・グラントが断った。おそらくギャランティだろう。ノー・ギャラと言われたウッド・ストックだが実際は巨額なギャランティーが発生していたのだ。ロックは反・商業主義、反体制、反権力という幻想はこの時点で崩れているのである。ジミー・ペイジはロバート・プラントをバンドに誘うときに、「どうだ、金を儲けようじゃないか」
と言ったそうだ。ジミー・ペイジとピーター・グラントは冷静にポップ・ミュージックシーンを捉えていたのである。ジミー・ペイジはウッド・ストックより前に気付いていたということだ。
 ロックは死んだといわれる1969年、ツェッペリンはデビューし、ストーンズは加速している。ジョニー・ロットンが78年、セックス・ピストルズを脱退する際に「ロックは死んだ」と放った後もストーンズはまだ加速中である(2024年の現在も加速している、ストーンズは何度もピークを迎える。何度もオルガスムに到達する欲の深い女のようである)。ロックは何度も死んで、ロックというジャンルは単なるカテゴリーのひとつに過ぎないといわれて久しいが、最初から商業主義であり(プレスリーを見よ)、部分的に反権力、反体制だったに過ぎないのだ。ロックは商業主義と純粋なロック衝動の両輪を転がしてこそなのである。前衛と後衛の両輪を転がしてこそなのである。メジャーとマイナーの両輪を転がしてこそなのである。天使と悪魔の両輪を転がしてこそなのである。抽象と具象の両輪を転がしてこそなのである。太陽と北風の両輪を、ってもういいよ、しつこいな。1969年以降生き延びたロッカーたちはそこを勘違いしなかったのである。

※ロックの核心は反体制、反権力だ。成功した俺にもうロックは歌えない。聴衆を誰一人ごまかしたくない。こんなはずじゃなかった。成功したから俺は死ぬ。
カート・コバーン

 ジミー・ペイジはカート・コバーンと真逆である。何も死ぬこたぁねぇのである。死んで花実が咲くものか。「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」を観なかったのか?カート。タフなかみさん(コートニー・ラブ)を見習わなかったのか。コートニーは2005年の時点でレッドカーペットで「ハーベイ・ワインスタインには気をつけるように」と警告していたんだぞ。さすがである。

 まぁ、とにかく、つまり、「ロックはロックである」「女は女である」ように。嗚呼、ゴダールの映画のタイトルで決めるオレ。ここが巷に溢れているインチキ評論家と違うところだ。

※映画の発明は、あるばかでかい誤り、人間の映像を記録し、 再生産しながら、それをこの世の終わりまで映写し続けようとする という誤りの上に成り立っています。
ジャン=リュック・ゴダール

 ロックの発明だって意味はよくわからなくともサウンドを再生産しながら、人間の気持ちをこの世の終わりまで高騰させようとする誤りの上に成立しているのである、とゴダールとロックを無理やり結びつけるのである、オレは。とにかく1969年のジミー・ペイジは愛と幻想のウッド・ストックなど目もくれず、レッド・ツェッペリンを離陸したのである。

この記事は、オレのブログ~LED ZEPPELINを語り倒す、未熟ながら~よりセレクト
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