死ぬことと生きること。
「こうして今この文章を書けているということは、僕は生きているということだ」。かの有名な「われ思う故にわれあり」のような別に深い思考の果てにたどり着いた文ではなく、たんに思いついたから書き出しをこうしてみただけなのですが、当たり前のことほど難しく深遠なテーマであったりするのは事実だとおもいます。
いまパッと生き死にについて思いついた言葉が『生きることは死ぬことを見つけたり』と浮かんだんですが、イマイチどういう意味がわからなかったので調べたらこういう意味らしいです。
上のセンテンスは、ネットの記事から引っ張ってきたのですが、どうやら『生きることは死ぬことを見つけたり』とは、自分の心に従いあらゆる制約や自分が自らにかけている社会的な規範や道徳のストッパーをなくし正直にどれだけ生きれるかが生きることは死ぬことをみつけたりの本旨であるようです。葉隠れを読んだことがないので、どうしても意訳になりますが。。
さて、何で生きることや死ぬことについて人間(すくなくとも僕は)はあれこれ悩むかといえば、これは万人に共通して逃れられない普遍的な真理だからと思うのですが、当然ながらこのことを直視するのはなかなかにしんどいですし、そもそも何で生きてるのかってどう答えようとも正解であり、不正解な気がします。とりあえず暇なので「なぜ生きてるのかという命題」に対して幾つか考えてみたいとおもいます。
何で回答が3つになったかに、特に理由はないですが多くもなく少なくもないが3つな気がたので三つにしました。おそらくなぜ生きてるかの回答については、みんなが同じような回答になるとおもうんですが、ぼくは一人の考えは全体が持つ考えよりもすごく意味を持つ時があると思っていますし、回答が似ててもなぜこの考えに至ったかの理路は違うだろうから、ぼくの個人的な死生観について更に話を進めていこうとおもいます。
【死ぬのが怖いから】
これは当たり前すぎて掘り下げるのも馬鹿らしいんですが、みんな死ぬのは怖いです。死んだら終わりだから。あんまり説明になってないかもですが、科学的に怖いを説明するよりシンプルに車に引かれそうになったり具合が悪いときのこと思い出した方が怖いは説明がつきます。
【生きてた証を残したいから】
人間には何かを残したいという欲求が本能にあるようです。まあ、出典はわからないですが、これも経験則的にわかります。写真や絵画、芸術が発展したのは人間が生きてた証を残したいという本能的な欲求があったからこそでしょうし、ぼくも生きてた証は残したいです。
【死にたくなるほど苦しくないから】
少し恥ずかし話ですが、ぼくはいまは大分落ち着いたのですが希死念慮がこびりついて取れない時期がありました。いまでも辛くなると時々「死にたい」と呟くのですが、実際に行動は起こしたことないです。頭が狂いそうになるときもあったのですが、とりあえずは事を起こしてはいません。不思議なのが、死にたいという気持ちは本当なのに実際に死んでないということは、おそらく心より生きていたいという体の本能が勝っていたからなのだとおもうので、死にたくなるほど苦しくない致死量にいたるまで精神を蝕まれなかったが正しいかもです。
いろいろここまで、生き死について書いてみましたが、なぜ生きてるかについては、自分は理由は必要ないとおもってます。もちろん、何かの志があるひとはその志の動機が深ければ、深いほど強烈に生命力が稼働し夢を叶える原動力になるので、それ自体は素晴らしいですが、生きることの理由とはすこし違う気がします。どちらかというと、生きるってたんにこの世に存在していたい気持ちが、死に引っ張られず死を意識せずに過ごせる時間があるという状態な気がします。雑な結論ですが、生きることとは、死を意識しないことであるだとおもいます。ぼくは死ぬことを考えれば考えるほど死にたくなっていったので意識を死に向けることは実は生きることにものすごく足枷になってるという疑念がぬぐえません。書いてて思いましたが、ちょっとテーマが難しすぎました。この生きることと死ぬことについてはまた時間がある時に考えてみたいとおもいます。