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夫婦愛が溢れるお葬式


今年の節分は、2月2日。124年ぶりという事でしたが、二十四(にじゅうし)節季は、葬儀のナレーションを作成するのにとても重要です。
立春を過ぎた頃から、北関東では物凄い寒い日もあれば、着実に春へと季節が移ろい行くことを実感させられる日もあります。

「立春を過ぎたとは言え、如月の夜は厳しい寒さに見舞われております。一昨日に降った雪がまだ所々に残り、身体の芯まで冷える思いがいたしますのは、大切な方が旅立たれたからでしょうか。」

離婚をしてしまった私にとりまして、ご夫婦の愛がとても心に染み入る時がございます。
定年退職後、夫婦水入らずで旅行や趣味を楽しもうと思っていた矢先、癌を患いお亡くなりになる方がいらっしゃいます。
告知後の闘病生活は、家族が一丸となって戦わなければ病気に勝てないのでしょう。そうして戦い、しかし徐々に衰えて行く身体を目の当たりにすると、これ以上苦しめたくないとの思いと、一日でも長く生きてほしいとの思いが錯綜し、そして迎える臨終の時に、張りつめた思いが一気に崩れて行くのです。

葬儀の際には、放心状態のご遺族様、特に配偶者の方はその傾向が強いものです。
ここに一通の手紙のコピーがあります。十数年前に、故人の奥様から「代読して下さい」と手渡されたものです。開式前に、ナレーションの一部として代読させていただきました。

妻から亡き夫へ向けてのお手紙

お父さんへ

庭の福寿草も春を告げるように黄色に咲き始めました。
こんなにお父さんと早く分かれるとは、夢にも思わなかったです。
私の誕生日2月3日、誕生日に死にたいと、毎日一生懸命頑張っていましたね。
病気と知らされ、絶望と不安で、何度泣いて、押しつぶされたか、一日でも長く生きてもらいたいと、先生と話し合い手術に至りました。
良くなることを信じ、一生懸命看病し、仕事との二足の草鞋で頑張ってきました。
病気と闘ったお父さんも、想像以上に苦しく大変でしたね。7か月も二人で泣いて闘った日々、長くて短かった気がします。いつもいつも、お父さんにおんぶに抱っこ、頼り切っていました。

子供たちも成長し、それぞれ自分の道を歩み始めました。
これから、私も自立です。これからは、今までと違い厳しいこともあるでしょう。しかし、しっかりと生きて行きます。
お父さんも、戦争で父親を失い、ずい分苦労してきましたね。これからが自分の人生なのに無念です。
お義母さんの事も心配しないで、大丈夫よ。どんなにつらい時も、天国で見守っていて下さい。
お父さんに感謝され、お礼を言われ、何も心残りはないです。お父さんに感謝状の代わりにこの手紙を贈ります。
今度生まれてくる時は、丈夫な体に生まれ変わって下さいね。
安らかに眠って下さい。
                            妻 〇〇より

お亡くなりになってからのご縁で司会をさせていただく私が、どんなに頑張ってナレーションを作っても、故人を慈しみ寄り添ったご家族の言葉を超えることはできません。
このお手紙の中にあるように、何も心残りはないとご主人へ向けて言える奥様の心情を捉え、決して悲嘆にくれる葬儀ではなく、堂々と病気と闘った奥様とご主人様のご披露の場として、少し声を張って司会を致しました。


ご主人に先立たれる悲しみと心細さは、まだまだ、育ち盛りのお子様がいらっしゃる場合など、その後の生活が大きく変わってしまう事から、更に増して参ります。
それが、外国の地で、縁あってご結婚されたご主人に先立たれた場合など、なおさらと思います。

国際結婚で配偶者を亡くした方

国際結婚は、嫁の来てのない農村ほど進んでいる場合があります。
また、日本に出稼ぎに来ている海外の方もおります。
国際結婚が、それほど珍しくもなくなり、地域に様々な国の人が住むようになりました。そうした中、喪主様が外国人のご葬儀にも遭遇するようになりました。
もう、12,3年ぐらい前になるでしょうか。
ご主人を五十代半ばで亡くされた南米出身の奥様が喪主のご葬儀の司会を担当しました。
ご主人は若いころ、国際交流のボランティアをしていて、留学生だった奥様とそこで知り合いました。その後、交際を続けご結婚をされ、出身地の県北の地へとやって参りました。

お子さんは、中学生と小学校高学年のお二人。かわいい女の子と男の子です。地元の中学へ通っているのでしょう、セーラー服姿が彫りの深いお顔にとても似合っておりました。

喪主様は結婚後、ご兄弟を日本に呼び寄せたらしく、奥様のご親戚の方もお見えになっておりました。

お式は仏式のお式です。喪服のお着物を借り着付けたのでしょう。和服姿の奥様が、二万キロも離れた土地で夫を弔う喪主となっていることを思うと、何となく痛々しく、ご主人のお身内の方や親戚の方に囲まれ、気を張っているご様子が手に取れるように分かりました。

この地域は、親族のお名前をお呼び出しする指名焼香があります。
そうした一連の式進行のお打ち合わせをして、喪主様にご主人様との出会いやご性格、最近のご様子などを伺い、短いナレーションを付けさせていただきました。
奥様は、中学校で英語のアシスタントティーチャーをなさっていらっしゃいました。
ご主人様の死因は、クモ膜下出血で、倒れてから意識の戻らないまま、あっという間に逝ってしまったとの事でした。

今はご葬儀を執り行う喪主となることで、気丈に振舞っていますが、お亡くなりになった時の悲嘆は、私では想像できないものだったでしょう。
しかし、郷に入れば郷に従えで、日本の習俗的なものが色濃く残る北関東の、真言宗でのご葬儀の喪主を勤められるお着物姿の奥様は、凛としていて、この地でやっていくんだ、という決意が表れていたように思います。

千の風になって


奥様らしさが表れたのは、参列者と一緒に「千の風になって」を合唱したい、とのお話を頂いたことです。
「私は、この曲が大好きです。ぜひ、みんなで唄って文雄(仮名)さんを送ってあげたい。歌詞カードもコピーしてきました」

この曲がヒットしてから、葬儀のBGMとして流すリクエストが増えておりました。
私は、2001年の9.11が起こる5年前の1996年の初めに、「あとに残された人へ 一〇〇〇の風」という南風椎さんが訳した詩集の初版本を購入しておりましたから、その後、この詩が世界的に広がっていったことを、そして、新井満さんが曲にしてくれたことを、どこか複雑な思いで、嬉しくも感じておりました。

この本を紹介して下さった方は、当時、茨城カウンセリングセンター理事長を勤めていた大須賀発蔵先生です。
その後、秋川雅史さんが唄い、大ヒットとなり、葬儀でも持参のCDを掛けて下さいとのご遺族が増えたのです。

私は喪主様に、
「導師退場後、喪主様のご挨拶があります。その際、挨拶の最後に、皆さんに『一緒に唄って下さい』と告げるのが良いのでは」
とご提案しました。
実は、この曲を嫌っているご住職も中にはいるのです。献歌として、式中に組み込むより、式終了後に思いっきり唄っていただいた方がよいと考えました。

式の最後に、喪主である奥様がしっかりとご挨拶をして、いよいよ参列者全員での合唱が始まりました。
音響設備は司会台の所にありますから、私がCDを掛けます。
静かにイントロが始まり、歌が始まりました。

唄っていくうちに、奥様の目から大粒の涙がこぼれました。
お子様たちは、すすりあげて泣きながら唄っています。
抑えていた感情が、歌と共に噴き出したのでしょう。歌には人の心を解き放つ力があります。心の琴線に触れる歌詩があります。人を癒す力があります。
「千の風になって」は、故人に対する葬送の歌ではなく、遺された家族が、大切な人をいつも身近に感じ、生活を営んでいくための歌なのです。

私はグリーフ・カウンセリングの勉強をしております。麗澤大学の名誉教授である水野治太郎先生に師事しております。
水野先生は、柏にある国立がんセンターで、末期癌患者のご家族様に向けてのグリーフ・カウンセリングを開催し、また、毎晩、夜9時から1時間、自宅でクライアントからの電話を待つ生活を二十年以上続けていらっしゃいました。(※現在は行っておりません)

死を受け入れるには時間がかかります。話を聴くカウンセラーも重く辛い時間を過ごすことになるでしょう。
しかし、「死」という事実を能動的に、豊かな物語として、構成し直すことが出来る、という考えのもとにナラティブセラピー(語りと傾聴重視のセラピー)はあります。
式前の短い時間に故人について聴くことも、小さなセラピーでしょうか。
赤の他人の私に亡くなった大切な方を語る時、その人に対する本当の思いが沸きあがってくる事があります。

私のナレーションは、まだまだ、遺族を癒す所には、到底たどり着いておりません。早くその思いを聴くことができる司会者になりたい、と切望し勉強を続けてまいります。

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