見出し画像

6月の葬儀


冒頭のナレーション

「明るい日差しに木々の葉も照らされ、庭先には てっせんの花が風車のように咲いております。小さな一つ一つに命があるように、この世に生あるものの命の大切さを実感いたします」
 
「穏やかな週末となりました今日、田畑には農作業をする人々の姿が見えます。新緑もだんだんとその色を濃くしております。家の庭先に目をやりますと、バラやクレマチスの花が美しく咲いております。この美しい季節に過ぎ去りし一つの命がありました」
 
「しっとりとした雨が奥久慈の山々に降り注ぎ、山間を煙らせております。田植えの棲んだ水田には、短い苗が整然と並んでおります。自然と対峙する時、人の命のはかなさを思い知らされます」
 
少し前までは、山つつじや藤の花がとてもきれいで、その描写をしておりましたが、季節の花の描写も、日々変わっていきます。毎日目にする自然の姿も時代を反映していることがあります。藤の花がきれいなのは、山を手入れする人がいず、藤の蔓が伸び放題に伸びた結果です。今の時代、里山を守るのも大変なのですね。


 

故人様からのお手紙


さて、ここでは、故人が生前、奥様に宛ててお書きになったお手紙をご紹介させていただきます。闘病生活中の心の葛藤が見て取れ、深い夫婦愛に今読み返しても涙腺が緩んでしまいます。ナレーションとして紹介させていただきました。

今から10年以上まえの平成のお話です。
 
 梅雨の中休みの眩い陽射しが、水戸の街を照らしております。春に馥郁と香りを漂わせた梅の木も今は実を付け、収穫の時を迎えております。
花は咲き、実を結び、やがて、散りゆくように、人の一生も生を享け、育まれ、やがて終焉の時を迎えます。平成○○年六月二十五日山田和裕(仮名)様がお旅立ちになられました。ご家族に見守られながら、六十五年のご生涯を閉じられました。
 約三年におよぶ闘病生活、家族と共に病気と闘って参りました。昨年、和裕様が奥様の光江様の誕生日に手渡されたお手紙がここにございます。ご紹介させていただきます。
 
 芳枝さん、五十七歳の誕生日おめでとうございます。
 最近、芳枝さんの疲れている様子を見るたびに、私の病気のことで精神的にも肉体的にも相当な負担をさせていることに対して、本当に申し訳なく思っております。
 思い起こせば、結婚して三十三年間、好きでたまらなかった芳枝と一緒になり、和幸、和明、二人の子供に恵まれ、お金こそなかったものの、笑い、泣き、夢中でこの長い歳月を過ごしてまいりました。また、その間、私の父、母と同居し、朝から晩まで一生懸命年寄の世話をし、また子育てにと、本当に大変だった事、心から感謝申し上げます。
お陰様で、私の仕事も四年前、無事卒業でき、第二の就職も勤めてまいったところでありました。
 昨年二月、○○病院にて、突然、私の病気の告知を受け、私自身どうしてよいか心の整理も出来ない状態に陥りました。その後入院。そして、どうすべきか家族会議で私はもとより、芳枝、和幸、和明と真剣に考えた末、東京△△病院まで行かせてもらい、六月まで入院して参りました。結果としては手術しないで、化学療法で治療と言う事で結論を出し、私なりに頑張ってまいりました。
 私が入院している間、芳枝さんは子供達と一緒に山田家を守り、多大なお金を負担し、一番精神的に参っているのは、本当は芳枝さん自身であったと思います。私が病院のベッドで苦しんでいる時、水戸から毎日東京まで足を運んで、私のベッドまで来て励ましてくれた、あの時の様子は、私の脳裏に深く焼き付いて生涯忘れる事が出来ない・・・・・・・ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。(中略)
 わがままな、そして精神的に弱い私が、今、生きていられるのも芳枝さんをはじめ二人の子供の励まし、優しさがあったればこそ生きていられると思っております。改めまして心から感謝を申し上げます。(中略)
昨年、芳枝さんの誕生日に何もしてあげられなかったので、今日は一緒にご飯が食べられて本当に良かったと思っております。芳枝さん、どうぞ、自分の体をいたわってこれからも生活して行く様、心からお願いいたします。
誕生日 おめでとう・・・・。頑張れ、芳枝さん
 
平成○○年三月○日  山田芳枝様       
和裕より
 
 返事は出せないまま、逝ってしまいました・・・・と遠くを見つめる芳枝様。
今、祭壇で微笑む和裕様に一言、書きたかった手紙の言葉を伝えます。
「和裕さん、今まで本当にありがとうございました。心から感謝しております。また、いつかどこかでお会いしましょう・・・」
間もなく、開式でございます。 
 
 死因の一位は、「悪性新生物」つまり癌です。私が、ご縁があって司会させていただく方で男性ですと五十代の方、女性は早ければ三十代でお亡くなりになる方もいらっしゃいます。
ご高齢の方は、癌であっても進行が遅く、穏やかにお亡くなりになる方が多いのですが、やはり、お若い方ですとご家族一緒に癌と闘って、そして、逝かれる方がいらっしゃいます。

 ある時、奥様を癌で亡くされた定年をしたばかりの喪主様は、私が奥様の思い出について水を向けますと、堰を切ったかのように話しだしました。

「病院に行って、妻の背中を拭いてあげるんですよ。そうすると、日に日に肉が落ちていくのがわかるんです。でも、妻は満足そうな顔をしているんです。『お父さん、ありがとう』ってね。私も現役中は忙しくて、ぜんぜん妻にかまってあげられなく、好きな温泉にもたまにしか行けなかったんです。
 ゴールデンウィークに自宅に戻って来た時、息子たちと一緒に喜連川の温泉に行きました。でももう、温泉には入れるような状態でなく・・・、足湯に浸かったんです。そしたら、『お父さん、気持ちいいね~』って、とっても嬉しそうにしていました。それが、最後の家族で行った温泉になりましたけどね」
 
 ここ数回、女性の方で癌が見つかってから、一年も経たないうちにお亡くなりになる方のご葬儀を担当しております。早期発見なら助かる可能性も高いのでは、と思いますが、やるせない思いが残る葬儀式というものもあります。

 先日も、四十歳の誕生日を間もなく迎える女性が、乳癌によってお亡くなりになりました。
 彼女は、海の無い北関東のご出身で、中学生の頃からスキューバダイビングを始め、海のある茨城にやってきて、仕事をし、恋をし、海の見える町でご家庭を築かれました。
 やさしいご主人と、上は高校生のお姉さん、下は小学生の弟と二人のお子さんに恵まれ、これからの人生も、いろいろとお子様たちの将来を思い描いていたことでしょう。
 しかし、今年に入ってから、乳癌が見つかり、治療を続けてきたにも関わらず、こんなに早く逝ってしまわれました。
 下の男の子は、ハルトと同じくらいが一歳ぐらい上でしょうか。上のお嬢さんは、これから母親に代わり、家事や弟の面倒をみることになるでしょう。
 遺されたご家族も、本来、経験しなくてよい環境の中で、日々を過ごすことになります。
「私は、妻になにもしてやれませんでした・・・・」
妻が、母親が亡くなった実感は、朝起きた時、学校から帰った時など、そこにいるはずの姿がない、声がしないなど、後からじわじわとにじみ出てくることでしょう。
 そして、お亡くなりになった女性のご両親様も、早逝された娘への思いと、遺されたお孫さんへの思いなど複雑な境地だと思います。
 発見しやすいはずの乳癌ですが、やはりステージが進んでからという場合も、まだまだ多いようです。

叔母の死


 私の叔母は、享年五十歳で亡くなりました。乳癌でした。最初に腫瘍が見つかった時、すぐに検査入院をして、悪性と分かり摘出手術を行いました。
 その後、「五年間再発しなければ、ぐっと生存率が高くなるね」と、叔母の健康状態に気を配っておりました。母にとってはたった一人の妹、東京と茨城と離れてはおりましたが、自分のこと以上に妹を気遣っておりました。

 実は、叔母は乳癌が見つかる少し前に再婚しました。その相手の方は、奥様を癌で亡くされた方で、叔母と再婚したのでした。
 退院後、叔母はぐっと体力が落ち、三年目には、癌が再発してしまいました。直りたい一心で、民間療法など色々な治療法や身体に良いとされる健康食品など、お金を惜しまず使いました。
 しかし、病状は良くならず、放射線治療のため入院をしました。髪の毛が抜けた時のようにと、ウィッグを用意しておりましたが、放射線治療が効かなかったのか、そのウィッグを使う事はありませんでした。

 丁度その頃、叔母の一人娘である私の一つ歳下の従姉妹が結婚することになりました。女手一つで娘を育ててきた叔母、花嫁姿を見せてあげたい、と親戚の誰もが思いました。七月の入院、小康状態となり退院して夏の間、自宅療養をしておりました。結婚式は十月です。叔母は娘の結婚の準備でいろいろと忙しく、気を使っていたことと思います。その頃の叔母は、癌が再発している人とは思えないくらい、活き活きとして采配を振るっておりました。
 十月の結婚式の親族写真を見ると、とても美しく母親として輝いている叔母の姿がそこに映っております。
 しかし、その一ヵ月半後の十二月初旬、叔母は息を引き取りました。叔母の姉である母は、叔母の亡くなる一か月前から東京の私の部屋から、叔母の病院に通って看病をしておりました。
 胸の鎖骨の下ところに、大きな腫瘍ができ、赤紫色からどす黒い色へと変色し、そこが破れて膿ともつかない体液が流れていました。
 ガーゼを当て、粉末の脱臭剤をつけて終わりです。治療ではありません。痛みを抑えるためのモルヒネも使われました。朦朧とした意識から覚めると叔母は、「先生を呼んで」と看護師さんに、声にならない声で訴えます。
 そして、私の母にロッカーからお財布を持ってくるように頼みました。担当医がやってくると、「先生、苦しい、苦しいんです。楽にして下さい」と、先生の手に握りしめた万札を渡そうとします。もちろん、先生は受け取りません。先生自身、どんな声掛けをしたか、その場にいた私は覚えていません。呼吸するのも苦しくなった叔母は、「氷を頂戴」と言い、私はマグカップの中に浮かんでいた小さな氷をスプーンですくって、口の中へ入れてあげるのが精一杯でした。
 今、この瞬間まで息をしていた叔母の呼吸が止まり、心拍が止まり、そして、看護師さんと先生がまた病室に駆けつけ、死亡宣告をする。TVドラマで見るような死ではなく、生きたいと思いながら、突然、死がやってくるのだとその時私は実感いたしました。
 


 何年か前、ナイチンゲールの誕生月である五月の看護大会の時に、中央群馬脳神経外科病院の中島英雄先生(噺家 桂前治)が仰った言葉があります。
「私が何気なく過ごしている今日という日は、昨日亡くなった人が痛切に生きたいと願った一日である」
 その言葉が、金槌で頭を叩かれたようにガ~ン、と頭の芯に響きました。
生きたいと願って迎えることの出来なかった今日を、叔母の事を、私は忘れていました。
 生きたいと願っていた今日を、葬儀という形でその人を送る儀式をするのです。
 生きることの大切さを知れば知るほど、葬儀の大切さが身にしみてまいります。
 







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?