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半径1メートルの一生

 マメは、わたしの小学校への通学路にいつもいる犬だ。森を抜け、お墓の横をとおり、公道に出る手前にある一軒家。ビーグル犬のマメはその裏庭の、畑のいっかくで飼われている。マメは小さな犬小屋の前につけられた1メートルほどの鎖にいつもつながれていて、わたしがとおると、かまってほしそうに、ワンワンほえながら、しっぽをブンブン振って寄ってくる。
 マメが散歩に連れていってもらうところは、いちども見たことがない。ということは、朝から晩まで、何年も何年も、マメは半径1メートルの空間のなかだけで、生きているのだ。もしかしたら、生まれてからずっとかもしれない。
 夕方になると、マメが激しくほえる声が、わたしの家まで聞こえてくる。いらついているのだろうか。むりもない。わたしだって、5帖ほどしかない自分の部屋にずっと閉じ込められたら、大声を出して暴れたくなるだろう。マメにとっての楽しみは、わたしや一緒に下校する友達に頭をなでてもらったり、数メートル先の公道にあるたいやき屋さんにならぶ人たちを眺めることくらいではないだろうか。
 マメは雪の降る寒い夜も、ガレージに入れてもらうでもなく、吹きっさらしの土の上で、小さな犬小屋からはみだす頭を前足にちょこんと乗せ、震えながら寝ている。犬小屋の横には、薄いトタン板をいちまいかぶせ、わらをしいたスペースがあるが、寒さをしのぐのにじゅうぶんとは言いがたかった。わたしはときどき、散らかったわらを敷き直してやった。
 「マメちゃん、寒そうですね」わたしはいちどだけ、その家のおばあちゃんに声をかけたことがある。返事はこうだった。「犬は、ねえ」
 ごはんはきちんともらっているようで、みずぼらしくやせたりはしていないが、黒くコロコロしたうんちがたくさん、そのまま足元に転がっていることはしょっちゅうだ。
 寒い冬がくるたび、わたしはマメの命が縮むような気がして、どうか今年も無事に生きのびて、と祈るようなきもちでマメの横をとおった。急いでいて、マメを見もせず走ってとおりすぎるときは、何だかお腹のあたりがひゅっとした。
 お母さんも、マメのことをかわいそうだと言っていた。わたしは、自分が高学年になるまでには、マメはストレスか寒さで、死んでしまうのではないかと思った。
 しかし、そんなこちらの心配をよそに、3年生の冬が終わっても、マメは生きていた。4年生の冬が終わっても、5年生の冬が終わったいまも、マメは元気に生きている。あいかわらずよくほえるが、毛づやはいいし、太りすぎてもやせすぎてもいない。いたって健康そうだ。ときどきわたしが近づくのに気づかず、小屋の中で伏せたままでいることがあるが、その横顔はおだやかで、ほほえんでいるようにさえ見えるときがある。
 マメは草をふんで歩く楽しさも、思いきり走り回るきもちよさも知らない。でも、春の日差しのあたたかさは知っている。真夏に吹く風のここちよさも、わたしの手のぬくもりも知っている。
 今日もたいやき屋さんで買ったたいやきのしっぽをあげると、うれしそうに食べている。もしかするとマメは、あんがい幸せな犬なのかもしれない。

 わたしは来年は中学生になり、マメのいる道とは違う道をとおって学校へかようことになる。でももう、マメのほえる声を遠くに聞いても、お腹がひゅっとなることはないんじゃないか、という気がしている。

S.S


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