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【犬の短編13】 Ball Hunter

今日の試合は欠場しよう。
それが日本サッカーのためだ。
俺はもう、ボールを追いかける情熱を
失ってしまったのだから。

原田は、日本を代表するサッカー選手だ。
若い頃からヨーロッパの強豪を渡り歩き、
日本屈指のミッドフィールダーとして全盛期を迎えていた。
端正なマスクと爽やかな笑顔で、女性ファンの人気も非常に高い。

彼のプレーの特徴は、脅威的なスピードとフィジカルで90分間ボールを追いかけ続け、敵から奪い取るディフェンス力。
いつしかファンは彼を「Ball Hunter」と呼んだ。

しかし、ワールドカップ最終予選の重要な試合を間近に控えた原田の体に、異変が起きた。
突然、ボールを追いかける気がしなくなったのだ。
目の前にボールが飛んできても、体が全く反応しない。
考えるより先に本能的に動いていた原田の体が、今はぴくりとも動かない。
病院で体を調べ、カウンセリングで心を調べ、
あらゆる手を尽くしたが駄目だった。

そして、今日。
勝てばワールドカップ出場、負ければ不出場が決まる大一番。
こんな状態で出場しても、本来のプレーができない。
今日の試合は欠場しよう。
監督に伝えるため原田がロッカールームを出ようとした時、
長年連れ添ってきたトレーナーの佐々木が声をかけてきた。
「原田、これを使ってみないか」
佐々木が持っていたのは、VRゴーグルだった。


ぐにゃり。
目の前の視界が揺れた。
気づくと原田は、見覚えのない公園にいた。

まず強烈に飛び込んできたのは、匂いだった。
草の匂い、土の匂い、風の匂い。
今まで嗅いだことのない濃密で鮮明な匂いが、
これでもかと鼻に飛び込んでくる。

原田は、やけに視線が低いことに気づいた。
両手を地面につき、四つん這いで歩いていたのだ。

その時、原田の目の前を、誰かが投げたボールが飛んでいった。
その瞬間、自分の体中の血が沸き返るのを原田は感じた。
そして、考えるより先に体が動いた。
無我夢中で地面を蹴り、まっすぐにボールを追いかける。
ワン!ワンワン!
気づいたら勝手に叫んでいた。
次から次へと、何度も何度もボールは投げられた。
その度に原田は、夢中でボールを追いかけた。
なんて楽しいんだ。
もっと追いかけたい。
もっとボールを。
もっと!
もっと!
ワンワンワン!!


VRゴーグルを外した原田は、心配そうに見守る佐々木に力強くうなづいた。
ありがとう。
俺はもう大丈夫だ。


数万人の観客が見守る中、ピッチに立つ原田。
その表情には自信が戻っている。
スタンドでは多くの女性ファンが黄色い声をあげ、原田に釘づけになっている。

試合開始のホイッスル。
原田の目の前にボールがとんできた。
その瞬間、原田の中の本能が呼び覚まされる。

実況アナが叫んだ。

「原田、口から大量のよだれを垂らしています!!」



終わり

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