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国を護り命を守る為に私たちができる事



靖国神社が示す国家の思惑


靖国神社の遊就館には、戦死・戦傷病死した帝国陸海軍人の遺影1万点が、遺族の提供によって展示されています。それぞれの遺影には俗名(姓名)に続けて「命(のみこと)」と付けられたネームプレートが添えられ、神として祀られているのです。ご遺族にしてみれば、栄えある名誉なことでしょう。

けれども、その募集は2015年に締め切られており、今からではもう、靖国の神として遺影を祀ってもらうことができません。仮に、子孫の誰かが自宅で遺影を見つけるなどして新たに祀ってもらいたいと思っても、その願いは聞き届けられないのです。

命を懸けて国を護った軍人に対して、国が英霊と称え尊崇の念を捧げると言うのであれば、先祖と向き合う場を望むその遺族に対しても、分け隔てなく寄り添い応じるべきではないでしょうか。展示スペース等の問題があるにせよ事務的に期限を切るべきものではないでしょう。

また反対に、信仰その他の理由から「神として祀られたくない」と考えるご遺族やご本人もいるでしょう。けれども、そんな当事者の意向とは関係なく、2,466,532名の軍人軍属などが神として合祀されており、今後新たな戦死・戦傷病死者が出ると自動的に合祀する事にもなっているのです

何かおかしいと思いませんか。

為政者たちは誰もが、「英霊に尊崇の念」とは言いますが、「当時の為政者による誤った政治判断が、かけがえのない命を奪ったという結果責任に対する謝罪」を口にすることはありません。安倍元総理が「過去への反省」と言いましたがその中身は非常にあいまいであり、時の政府が軍人に殺し合いを命じたからこその結果であるにもかかわらず「過ちを繰り返さない」とは決して言わないのです。

ここに、国の思惑が見えてきます。
(靖国神社は民間の宗教法人ですが、国策により運営されていることは否定できないでしょう。少なくとも国はそれを利用しています。)

戦死・戦傷病死した軍人・軍属やその遺族に寄り添う姿勢をもたないこの国は、死者を英霊として、また神として祀り上げる事によって、国民が「国のために死ぬことは素晴らしい」と思うように仕向けたいのではないでしょうか。
国民のために存在するはずの国家が、国家のために尽くす国民を増やそうとしているのです。
「お国の為に」「滅私奉公」、そんな言葉が靖国神社のあちこちから聞こえてくるように思えるのは私だけではないはずです。


支配者にとっての軍人とは


ところで、東日本大震災で米軍が展開した「トモダチ作戦」を覚えていますか。当時被災者支援にあたった屈強な兵たちが、その後バタバタと病に倒れ除隊し亡くなっているのです。

『週刊東洋経済』によると、「白血病や甲状腺、消化器系のがんなどを発症した現役および元兵士・軍属は数百人に上るとみられ、これまでに20人の死亡が判明している」そうです。艦船で脱塩処理した海水を飲料や料理に使用したことによる、内部被ばくが主な原因とみられています。

日本が起こした原発事故によるものであるにもかかわらず、彼らに対して日米両政府は手を差し伸べるどころか実質的に見捨てている状況にあります。

そういえば米英中ソ仏の各国は、人体実験のため故意に多数の兵士を被爆させて「アトミック・ソルジャー」を生み出した過去があります。

令和5年版『防衛白書』において、防衛大臣は「どれだけ高度な装備品を揃えたところで、それを扱う『人』がいなけれ ば防衛力は発揮できません。自衛隊員は防衛力の中核です。」と述べています。

それぞれの「事情」と「思惑」を考えれば、支配者にとっての「軍人」とは、その命をも意のままに出来る「奴隷」なのかもしれません。

戦争は、敵と戦う事のように思われていますが、実際には支配者が配下に殺し合いを命令(督戦)し、敵味方なく人々を不幸のどん底に陥れる行為であることを、決して忘れてはなりません。


自他を共に尊重する日本人の良心


話は変わりますが、日本には、『決闘罪ニ関スル件』という法律があります。決闘を挑んでも、応じても、またそれに立ち会っても、すべて罪に問われるのです。いかなる紛争も、暴力という幼稚で野蛮な方法によって解決しようとする事は許されないという、至極真っ当な考え方ですね。

明治21年に、当時新聞記者であった犬養毅氏に対し決闘が申し込まれ、犬養氏が拒絶するという事件が報道され話題となり、この事件に触発されたと思われる決闘申込事件が続出しました。また、決闘の是非についての論議が盛り上がり、中には「決闘は文明の華」であるとする無罪説もあったようです。そのようなことから、西欧型の決闘の風習が我が国に伝わるおそれのあることが考慮され、翌明治22年に特別法として「決闘罪ニ関スル件」が制定されたといわれています。

決闘罪の話|参議院法制局

そして、この日本人としての良心に基づいた自他を共に尊重する考え方は、そのまま現行の憲法9条に引き継がれているのではないでしょうか。戦後の日本は、紛争解決の手段としての暴力を一切放棄していたはずなのです。

第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

日本国憲法

ところが、今では敵基地攻撃能力(反撃能力)までをも備えて敵の侵略を抑止すると言っています。

「誰も殺したくはないし、殺されたくもない」という思いが人類一般に共通してある以上、「殺戮と破壊が本質である戦争で誰かを守る」というプロパガンダは、「誰かを守るためなら誰かを殺しても良いとする差別」そのものであり、滅茶苦茶な理屈です。

「普遍的な価値である全ての”いのち”(身体と心)を守る事」、つまりは、「誰も敵とはみなさず、全ての人に敬意を払い、自他を共に尊重して、多様で寛容な共生社会を志向する事」こそが、戦争で利益を得る一部の人たちを除いた人類共通の願いでしょう。

であるならば、紛争は何としてでも対話で解決するべきであり、万が一攻撃されてしまった場合にも、反撃・交戦するのではなく、被害を最小限に食い止める努力をしつつ一刻も早く仲介者を得て停戦にもちこみ、対話による交渉に戻るべきでしょう。

「そうは言っても、敵が攻めて来ないようにするのが抑止の理論だ」という声が聞こえてきそうです。

しかしながら、抑止論は脅しあいですから、軍拡競争によっていつかは暴発する運命にある屁理屈です。それは手段の問題ではないため、通常兵力であっても核戦力であっても変わりのない事実です。拡大抑止(核抑止)さえあれば戦争が起こらないと考えるのはあまりにも浅はかと言えましょう。

実際、米軍が沖縄に核兵器を保管していた冷戦期に発生したキューバ危機の際には、毎日核兵器を積んだ爆撃機がソ連や中国に対して出撃し、いつでも核戦争を始められる状態になっていました。沖縄の核兵器保管庫が占拠された場合に備えた自爆作戦も、当然計画されていました。放射能による影響など眼中になかったのでしょう。核は使えない(使わない)兵器だと考えるのは、起こって欲しくないことは起こらないものと切り捨てた、かつての大日本帝国と変わりのない無責任な思考です。もてる戦力の全てを使って戦略を組み立てるのが武の常識なのです。


非人権的な状況に置かれている自衛官


いざ、運命の赴くままに抑止が破られたとしたら、国家の命令によって殺し合いに参加する自衛官が真っ先に被害と加害の苦しみを味わう事になります。自衛官は、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる事を誓います。」と服務の宣誓をしています。

しかし、自衛官に全てのリスクを押し付け、引き受けてもらって良いのでしょうか。

「内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)として、イラクに派遣された自衛隊の状況を見守り、(中略)活動を終了するまで、イラクの『戦後処理』に関わっ(た)」柳澤協二氏(自衛隊を活かす会 会長)は、著書『戦争はどうすれば終わるか?』の中で、次のように述べています。

戦争とは、大切な人を失うリスクを誰かに背負わせる事なのです。誰も、それが自分であって欲しいとは思わない。そこに人としての葛藤が生まれる。「自分がして欲しくないことを他人にやらせてもいいのか」という、幼稚園児が習う最低限の道徳観です。ですから私は、失われる命に対して臆病でなければならないと考えます。戦争に必要なものは勇気であり、自己保身のための臆病は軽蔑に値します。他者のための勇気は称賛に値します。しかし、犠牲への想像力を欠いた勇気は、政治家でも一国民でも、国を誤らせる元になるのです。

『戦争はどうすれば終わるか?』

「犠牲への想像力」は、全ての国民が自衛官とその家族に向けて頭をはたらかさなければならない事です。さらに言えば、今自衛官は大幅な定員割れをしています。有事となれば民間人も徴兵される事になるでしょうから、全ての市民にかかわる問題でもあるはずです。
そもそも、自衛官は軍服を着た市民なのです。

柳澤氏が関わったイラクのみならず、日本の自衛隊は何度も海外に派遣されています。けれども日本には「法の空白」があり、自衛官が、派遣先で戦闘はおろか事件や事故を起こした場合を想定した議論さえしないままに派遣されている実態に目を向けなければなりません。

陸上自衛隊中央即応連隊(CRR)に所属していたある退職自衛官の話によると、「自分の身は自分以外誰も護ってくれないからよく考えて行動しろ」と教育されていたそうです。例えば派遣先で戦闘となり敵を射殺したとすれば、帰国した後に「殺人罪」で逮捕起訴され、懲戒免職になると言うのです。

彼らは日本で一番多くの実弾射撃訓練をしていますが、いざ海外に派遣されたら一発の弾も撃てず、基地を城のように築いたり車輛を規則正しく整列駐車させるなどしたりして、攻撃される隙を作らないように過ごす事でしか、身を護る術はないのです。

自衛隊法では、119条120条122条などに抗命罪が規定されており、命令に従わない自衛隊員等は罰せられます。

米兵・自衛官人権ホットラインを主宰する小西誠氏によると、陸幕監部第一部監修の『陸上自衛隊法令解説』には次のように解説されているそうです。

隊員は、職務の遂行に当たっては、上官の職務上の命令に忠実に従わねばならない。(中略)命令には適法な命令と違法な命令が考えられ、違法な命令でも原則として有効であって取り消されない限り隊員はこれに服従しなければならず、服従の結果なされた行為については、命令を発した上官が責任を負う。

小西誠氏noteより

ところが、その上官の責任を問う法律が日本にはないのです。東京外国語大学大学院名誉教授の伊勢崎賢治氏は、『14歳からの非戦入門』で次のように述べています。

 例えば、ジェノサイドが1000人の犠牲者を生んだとして、それは1000件の殺人事件ではない。必ず、それを政治的に、資金的に煽り、その尖兵となった民衆の手を血で染めさせた指導者、つまり「上官」がいるはずである。
 日本では、1世紀前の関東大震災の折に朝鮮人を虐殺した例がそれだ。自警団など民衆だけでなく、警察や軍隊も関わっていたはずだ。しかしそれを命じ、組織的に煽った「上」のほうの人間は誰も罰されていない。
 第二次大戦後、国際人道法を基幹として、こういう上意下達の指揮命令下で起きる大量殺戮、戦争犯罪を取り締まる国際条約が発展した。現在では、ジェノサイドのように戦時ではなく平和時でも起きる、そして軍隊ではなく民衆によっても引き起こされる「戦争犯罪」を定義し、その「上官」を公訴時効なしで「主犯」として追い詰め、量刑も実行犯ではなく、「上官」を起点として科す考え方になっている。
(中略)
 何より重要なのは、それを裁く第一次裁判権を批准国に課している事だ。つまり、批准国は単に条約に署名するだけでなくそれを裁くための国内法を整備する責任が発生する。しかし、関東大震災以来、日本はいまだに、この整備が欠落したままである。
(中略)
現状の自衛隊法には「抗命罪」、つまり命令に背いたことを罰する法があるだけだ。末端の「兵士」をこれほど非人権的な状況に置く国は、世界広しといえど日本だけである。

伊勢崎賢治『14歳からの非戦入門』

要するに、自衛官が、命令に従い公務の執行としての「殺し合い」をした場合であっても、その責任は、上官ではなく殺した本人が負わなければならないという事です。
自衛官を奴隷として意のままに使いたい支配者にとって、何と都合の良い事でしょう。ちなみに最高司令官は内閣総理大臣です。

そして、さらに、ニュルンベルク原則が現場の自衛官を縛り付けます。

政府または上司の命令に従って行為した者は、【道徳的選択】が現実に可能であったとき、国際法上の責任を免れない。

ニュルンベルク原則 第四原則

この事は、先の『陸上自衛隊法令解説』では、次のように述べられています。

しかし、当該命令が「重大かつ明白に瑕疵のある違法な場合は無効であって」隊員はこれに従う必要がないばかりではなく従うべきではなく、服従の結果なされた行為については、命令を発した上官のみならずこれに服従した隊員も責任を負わねばならない。

小西誠氏noteより

それぞれの自衛官が、命令に対してそれが「重大かつ明白に瑕疵のある違法な場合」であるかどうかについて、極限状況にある戦場で自ら適切に判断し、【道徳的選択】をして、上官に抗命権を主張できると思いますか。

なお、先の大戦で抗命権を主張した渡辺良三氏(『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』)に関する長周新聞の読者投稿がありましたので、一部を紹介します。

渡辺さんは初年兵のとき、隊の命令で、抵抗のできない中国人捕虜を銃剣で突く殺人演習(戦場での殺人に慣れるための度胸試し)に臨んださいに、苦悩の末に一人命令を拒否しました。そのために言語に絶するかずかずの凄惨なリンチと仲間からの迫害と蔑視を受け続けた経験を持ちます。

長周新聞2024年8月26日(3)  民笛  (山形市 大場一行氏)より引用


ここまで見てくると、いかにこの国が自衛官に寄り添っていないかがよくわかります。まさに、世界で一番「非人権的な状況に置く」酷い国なのでしょう。

「自衛隊員は、国民全体の奉仕者であり、国民の一部に対してのみの奉仕者ではないことを自覚し、・・・」と「倫理行動基準」にありますが、軍服を着た市民である自衛官は、国民全体に奉仕するのではなく、「国のために国民がいる」と思っている支配者(国民の一部)のためだけに命がけで奉仕する奴隷にされてしまいます。


自衛官【退職・帰郷】応援キャンペーン


殺し合いは、そもそも非道徳的な行為です。
被害の苦悩は勿論ですが、加害の苦悩も極めてつらいものでしょう。
自衛官自身が「殺し合いをしたくない」と思うのなら、平時のうちに退職する事が賢明なのではないでしょうか。

もしも私たち市民がこぞって、自衛官の【退職・帰郷】を応援すれば、政府が軍拡に励んでも、確実に軍縮が実現できます。

戦争は、世論が火をつけます。
国家がどんなに戦争を企んだとしても、世論がそれを後押ししなければ決して戦争を始めることはできないのです。

自衛官【退職・帰郷】応援キャンペーンが大きなうねりをつくり出せば、軍縮の効果と相まって国家間の緊張を和らげ、日本政府に対して対話で紛争を解決する道を選択させることができるでしょう。

企画書 https://1drv.ms/p/s!AqCpCuiK-geklwZ7hzulSuroPbez?e=jbZcwy


国を護り命を守る為に、私たち市民にできる唯一の軍縮策である「自衛官【退職・帰郷】応援キャンペーン」を一緒に力強く始めませんか。




抗命権に関する最高裁判例




戦争の防ぎ方
ご自身や、子や孫が、特攻隊員として開聞岳に別れを告げる事になると想像できますか
ご自身や、子や孫が、靖国神社に神として祀られることを喜べますか




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