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トーマス・ベルンハルト紹介~『東欧の想像力』より

 2024年12月に、現代オーストリアの作家トーマス・ベルンハルトによる『寒さ』日本語版を刊行いたします。この作品で描かれるのは、作家自身の青年時代。そして、これまで弊社が刊行してきた『ある子供』『原因』『地下』『息』とともに、「自伝五部作」を形成します。

 『ある子供』から新刊『寒さ』までの「自伝五部作」は、ベルンハルト入門として最適の作品たちです。が、そもそもベルンハルトはどういう作家なのでしょうか……? 2016年に刊行した『東欧の想像力 現代東欧文学ガイド』にベルンハルトの紹介文が掲載されていますので、それを公開します。執筆担当者は、「自伝五部作」訳者の今井敦さんです。

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トーマス・ベルンハルト[1931-89]


 「私が書くのは、いつも内面風景ばかりだ。外からは見ることのできない内面のなりゆき、これこそ文学における唯一興味深いものだから。外的なものはすべて、見れば分かるではないか。ほかの誰にも見えないもの、それを書き留めることにこそ意味がある。」ベルンハルトのこの言葉は、彼の文学のありようを端的に示している。彼の小説は、ほとんど登場人物のモノローグから成り、それが最初から最後まで、段落の切れ目もなく延々と続く。挿入句や副文を多用した長いセンテンスの連続で、極端な場合、1ページが1,2文で占められている。それでいて文体には独特の音楽性があり、読み手は次第に虜となっていく。虚構と事実が入り混じり、読者がそこに実在の人や場所を錯覚してしまうのも、ベルンハルトの特質であろう。彼の「小説」は多分に自伝的要素を含んでいるが、一方「自伝」として書かれた五部作『原因』(1975)、『地下』(1976)、『息』(1978)、『寒さ』(1981)、『ある子供』(1982)は、語り手の目を通して様式化されている。文学(フィクション)と非文学(ノンフィクション)の区別など、彼にあっては意味をなさないのかもしれない。

 彼ほど、故国オーストリアとのあいだにスキャンダルを巻き起こした人物もめずらしい。小説『凍』(1963)で国家賞を得たときの受賞スピーチが、そもそもの始まりだった。主催者側の大臣は怒り心頭に席を立ち、壊れんばかりの音をたてて投げつけるように扉を閉め、会場を出て行った。ベルンハルトはこのとき、オーストリア人を「断末魔の被造物」と罵ったうえ、「国家は常に失敗へ、人々は絶え間なく卑劣行為と精神薄弱へ断罪されている。……だが、死を思えば何もかもお笑いぐさだ」、と言い放った。オーストリアのナチス性を弾劾した晩年の劇作『ヘルデンプラッツ(英雄広場)』(1988)では、オーストリア社会全体を騒擾の渦に巻き込んだ。そして死後、遺言が明らかになったときに再度、人々は驚かされた。自作の国内での上演、印刷、朗読を一切禁じたのだ。「私は、オーストリアという国と何の関係も持ちたくない……」。戦後もナチスを信奉しながら、それをカトリックの法衣で覆い隠している国、彼が弾劾するのは、そういうオーストリアであった。生涯彼は、そのオーストリアに暮らし続けたのではあるが……。

 ベルンハルトの主人公たちは、死に魅入られた存在である。死を直視することによって、あらゆる表層の向こう側にある真実に対峙し、狂気に近い境界域に生きる人々、世界を拒み、自己をも蔑視する孤高の偏屈たち。そうした主人公の多くには、母方の祖父、生涯無名に終った作家、ヨハネス・フロイムビヒラーの姿が重なる。母の愛を信じることができず、私生児として暗い幼少期を送ったベルンハルトの唯一の理解者は、祖父であった。父は、母を捨て、一度も息子に面会することなく死んだ。自殺と言われる。「お前が私の一生を台無しにしたのよ。何もかもお前のせいだわ。」母から受けたこの言葉は、ベルンハルト少年の心に深く突き刺さった。

 祖父と、祖父が愛読したショーペンハウアー、パスカル、モンテーニュ、ノヴァーリス、そしてヴァレリーが、ベルンハルトの文学的先達だった。自殺願望に囚われた青年期、自ら決意して学校を辞めた彼は、場末の食料品店で働くことで、活路を見出す。声楽家として身を立てる可能性が見えたそのとき、肺病に襲われ、生死の境をさまよう。同じころ、同じ病院で祖父が病死、一年後には母も癌で早世した。闘病のあと、彼自身は九死に一生を得る。ザルツブルクのモーツァルテウムで音楽と演劇学を修め、50年代から創作を世に問うた。小説『凍』の成功により、一躍現代文学の旗手として躍り出たが、劇作においても次々話題作を発表した。わが国でも著名なザルツブルク音楽祭(演劇祭でもある)で、最も多く上演された現代オーストリアの劇作家は、トーマス・ベルンハルトである。1989年、58歳で病死した。

今井敦

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『東欧の想像力』の紹介ページです。各オンライン書店さんの販売ページへのリンクも掲載されています。

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 新刊『寒さ』の紹介ページです。どうぞご覧ください。


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