『淳一』 〜1990年はじめての男〜 vol.9
明け方の新宿通りを、ふたり、並んで歩いた。
「そういえば、ワタルさん、来なかったね」
「アイツは気まぐれでわがままで、いい年して子どもみたいなんだから」
淳一が不機嫌そうに言った。
「へー、そうなんだ。いい人そうだったけど、いろいろあるんだね」
ちょっとくらい中村繁之に似ているからって、みんなでちやほやするからだよ、と思いながらそう言った。
「苺、あんなにいっぱい高かっただろ?」
「先月はいっぱいバイトに入れたから。週末が暇になった分」
「あ…ごめん…」
「冗談だよ、ハハ」
白い息がたくさん溢れた。
「真文はちゃんとしてるよな」
「何が?」
「お土産もってきてくれたり、周りに気を使えるし、みんなも楽しそうだったし」
「そう?ならよかったけど。僕もすっごい楽しかったよ」
本当は、心底面白かったことなんてほとんどなかった。
というか、どんな瞬間も横目で淳一の様子を伺っていたから会話の内容もほとんど記憶になかった。
笑い声を上げすぎて喉が痛かった。
作り笑いをしすぎてほっぺたが釣りそうだった。
「なんかさ」
淳一が言った。
「なんか、いつもニコニコ笑いながら俺のそばにいてくれたの、真文だったんだなって、気づいたよ」
全部聞こえていたけれど、もういちど聞きたくて「え?」と聞き返した。
「真文がいつもそばで笑ってくれていて、それで幸せだったんだなって」
僕は笑った。
またまたご冗談を、みたいな感じで笑った。
だけど淳一は真顔のまま
「あんなことしちゃって、正直、後悔してる」
と、言った。
そうでしょう?
そうでしょうとも。
ちょっとまぶたが一重なくらいで、捨てるには惜しい子だったでしょう?
心の中はおしゃべりだったけど、僕は何も言わず、何も答えず、口元に小さく微笑みをたたえながら、少し明るくなった空なんかを見上げていた。
「うち、寄ってく?」
「え?」
「よかったらさ、これからうち、寄ってく?」
いつだってさらっとさりげないはずの淳一の声が、少し震えていた。
「行かないよ」
僕はきっぱりと答えた。
「行かないよ。だって、もう、別れたんだもん。別れるって、そういうことでしょ?」
僕は笑顔でそうきっぱりと答えた。
勝った。
そう思った。
勝ち負けでいうところの、勝ちだ!
そう思った。
だから、さぁ、もう次の角を曲がろう。
そう思った。
西武新宿線になど、もう、一生、用はない。
「じゃ、僕はここで」
「え?」
「JRだから」
「あ、そっか…」
「今夜はありがとう」
「いや…こちらこそ、ありがとう」
「じゃ」
「うん、また、近いうちに飯でも」
「うん」なんて、言ってあげるわけなかった。
僕は最後の力を振り絞り、笑顔で手を振ってから、淳一に背を向けた。
どうだ、可愛いかっただろう。
どうだ、愛おしいかっただろう。
だけど、もう、二度と振り返ってなんてあげない。
空が、また一段と明るくなっていた。
新しい朝が来た、とラジオ体操の歌を口ずさみながら駅へ向かった。
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