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床屋と図書館 その9
真文は本が大好きでした。
週に2度ほどは地域の図書館に通っていました。
図書館は2階建てで、1階は子供のための、2階は大人のためのフロアになっていました。1階では、もう、読みたい本が見つけられなくて、初めて2階へ上がってみたのは、5年生に上がる前の春休みのことでした。
階段を上がっていくと、校庭の隅の鉄棒のような錆びた匂いを感じました。それが本棚のせいだということは2階に上がってすぐ解りました。
1階の本棚は木製ですが、2階のそれは鉄製です。
真文の背丈の倍以上もある鉄製の本棚が、碁盤の目の街をつくるように整然と並び、所々に棚の上の方の本を取るための梯子が設置されていました。窓から差し込む太陽の光が本棚に遮られるせいでしょうか、2階の特に奥の方なんかは、空気が少しひんやりしているように感じました。
そして、2階は1階に比べて圧倒的に静かでした。
本棚の陰に隠れるように佇めば、まるで世界に自分ひとりしかいないような心細い気分になりました。だけど、本棚に並んだ本と本の間から向こう側を覗くと、小さな単行本を眉間に皺を寄せながら覗き込んでいる丸眼鏡のおじさんや、重たそうな図鑑を両手で抱え1ページ1ページ確かめるようにめくる髪の長い女の人がいたりしました。
2階にある本はどれも真文にはまだ難しいのでしょうか?だけど、どうしても、そこにある何かを読んでみたくて『今月のベストセラーコーナー』で紹介されていた本を適当に借りてみたら、これが大当たりでした。
それ以来、真文はすっかり赤川次郎中毒になりました。
真文は自室のフローリングの床の上に寝転びながら読書をします。寝ながら本を読むなんて行儀が悪いとお母さんは怒りますが、勉強机に座って読むよりも寝転びながら読む方が、本の世界に入り込めるような気がします。それに、お父さんはいつも、夜、眠りにつく前に布団の中で本を読んでいます。
その日も床で腹這いになって赤川次郎の本を読んでいました。ふいに背中のどこかが痒くなって手を伸ばそうとした瞬間、股間のあたりが突然、ふわっ、となりました。
「え、なんだろ?」
試しにもう一度、同じ動きをしてみると、やはり股間の辺りが、ふわっ、となります。それは浮き上がるような、温かくなるような、くすぐられたような不思議な感覚でした。真文は何度か繰り返してみました。そしてどうやら腹ばいのまま下半身に体重をかけて股間を床に押し付けながら全身を軽く揺すると、自分の体にそんな現象が起こることを発見しました。
その日から、真文はその現象の虜になりました。
赤川次郎の本を読みながら、そればかりしていました。赤川次郎の本を読むふりをしながら、そればかりしている日もありました。クラスメートと校庭でサッカーをしなくてはいけない日は「早く本が読みたいなー」と独り言を言いながら、頭の中ではその現象のことばかり考えていることもありました。
全身を揺らし続けると、気持ち良さは斜め一直線の線グラフのように上昇しつづけます。しばらくすると気持ちよさがこれ以上ないほどになって、その瞬間、路面が凍っている日の朝くらい体がぶるっと震えます。その後しばらくは体の中に湯気が立っているようなくすぐったい気持ち良さが残りますが、しばらくするとそれもまたやはり湯気のようにふつんと消えてしまいます。頭の中が少しぼーっとします。
「マスターベーションは、しているの?」
金子のおじさんにそう尋ねられた時、真文の頭の中に瞬時に浮かんだのはマスタードでした。大好きなアメリカンドッグを食べる時、真文が絶対にかけない方の、あの黄色いソース以外、思い当たる節がありませんでした。
「よく、わかりません」
「したことないんだ?」
「…?」
「おちんちんをね、手でこすると気持ちいいんだよ」
おじさんはそう説明しながら、真文の半ズボンの小さな膨らみをさすりました。真文は、まず、びっくりしました。それから戸惑いました。おじさんにさわられている部分が、別に、気持ちよくもなんともなかったからです。
真文がぽかんとした表情のままおじさんの顔を見上げていると、「真文君には、まだちょっと早かったかな」とおじさんは笑いました。それは苦笑という感じの笑い方でした。真文は子供扱いされたようで気分を害し「よく、わかりません」ともう一度、言いました。
家に帰ってすぐに辞書で調べました。
そして、理解しました。
マスターベーションとは、あれ、のことでした。
辞書の説明から読み解くに、それは真文がフローリングの床の上で赤川次郎の本を読みながら毎日のように行っている、あれ、に違いありませんでした。だけど、金子のおじさんはその行為を「手でこする」と説明しました。真文にしてみればあれは「手でこする」のではなく「床に押しつけて全身を揺らす」のが正解です。
真文は床の上に仰向けになり、おじさんにされたように、ズボンの上から手のひらでおちんちんのあたりでさすってみましたが、やはり気持ちよくなんかありませんでした。手のひらに力を入れて強くこすれば少し気持ちいいのですが、床に押し付けるほどではありませんでした。
何が正しくて、何が間違っているのか?
いつもバーバー金子で流れている『子ども電話相談室』に尋ねてみたいことが初めてできたような気がしました。だけど、真文には、そんな行動を起こす勇気はありませんでした。