『Olivier』 〜1993年 フランス人の男〜 vol.5
SMは家の外でやろう!
それが僕とOlivierの新しい住まいでの最初のルールになった。
いつの日か僕が立派なご主人様になれることを期待される方が辛かった。
それならば、外で楽しんでくれる方が良かった。
それにSMは、僕にとってはセックスとはまた違うもので、だから『浮気』という感じがしなかった。
僕はテニスができないから、テニスをしたいならテニスができる人とやればいいじゃない?
そんな気分だった。
結論から言うと、僕とOlivierは一緒に住み始めたその日から、別れる日まで、およそ二年半ほど、一度もセックスをしなかった。
だけど、旅は、頻繁にした。
初冬のカナダを訪れた。
Olivierが、デカいアメ車を運転したいと言うから(僕は運転ができない)『リンカーン コンチネンタル』という車を借りて、バンクーバーからロッキー山脈を越えてカルガリーをめざした。
途中でアルペンスキーを楽しんだり、美しい街や湖を訪れたり、気ままで楽しい旅だった。
その日、雪がちらちら降っていて、山中の道路も白く覆われていた。
「It's solt(あれは塩だよ)」
Olivier言った。
「No. It's snow (違うよ、雪でしょ)」
「Yes.It's solt(いいや、塩だ)」
カナダの道路には凍結してスリップしないように塩が撒かれているのだ、とOlivierは言った。
どこまでも続くような真っ白な道の、そのすべてが塩…?
まるで信じられなかったけど、Olivierは頑固なので僕は引き下がった。
やがて、僕たちの目の前にタンクローリーが現れた。
いかにもアメリカ大陸らしい巨大なタンクローリーだった。
Olivierは追い越し車線に入った。
だけど、タンクローリーとの車間距離が不十分のまま追い越し車線の終わりが見えた。
Olivierが、強引にハンドルを切ってタンクローリーの前へ出ようとした。
その瞬間、車体の後部がタンクローリーのタイヤにぶつかり、『リンカーン コンチネンタル』はくるくるとスリップし始めた。
道→崖→タンクローリー→山肌→道→崖→タンクローリー→山肌→…が永遠に繰り返されるような、まさに360度大パノラマの光景を見ながら僕は
「やっぱり塩じゃなかったなー」
と思った。
崖側に、ガードレールのない山道だった。
車体は回転しながら少しずつ崖の方へ近づいていった。
カナダ旅行のことを親に知らせていなかった。
嘘をついて仕送りを増やしてもらい旅行代に充てていた。
ロンドンにいると思っていた息子が、カナダの山奥で死んだなんて。
親不孝でごめんね、と心から思った。
その時、ガツンと大きな音がした。
車が崖ギリギリに止まった。
僕は車を降りた。
血相を変えて近づいてきたタンクローリーの運転手に向かって「We are fine(僕たちは大丈夫)」と困ったように笑った。
車は岩にぶつかって止まっていた。
崖沿いに岩が出っ張っているのは前後を見渡してもここだけだった。
それまでの人生で、一番、死に近づいた瞬間だった、と思った。
Olivierは放心状態で運転席から動けずにいた。
それから警察が来たりして僕たちは近くのホテルに泊まることにした。
部屋に入ると緊張が解けたのか、Olivierはベッドの上に座って涙を流した。
「I was so afraid, so afraid… that I may have killed you…(とっても怖かったんだ…怖かったんだ…君を殺してしまうかもしれないって…)」
そう何度も言って泣いていた。
自分が死ぬこと、ではなくて。
僕を殺してしまうことを恐れていたなんて。
僕はOlivierを抱きしめた。
やっぱり道路を白くしていたのは塩ではなくて雪だったと思うけど、その件は水に流そうと思った。
僕たちの生活にセックスはなかった。
だけど、時々、こんなことが起きて、僕たちはやっぱり恋人なんだな、と認識することができた。