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『Olivier』  〜1993年 フランス人の男〜 vol.9

パリから帰ってきて2ヶ月ほど経ったころ。
Noiが電話に出ないんだ、とOlivierが寂しそうに言った。

ついに飽きられたか、もしくは、そういうプレイなんじゃないの?と最初は笑っていたけど、1ヶ月ほど経っても事態が変わらず、さすがに僕も心配になった。

NoiやJaceを知るコミュニティの人たちも誰一人、ふたりの所在を知ることができなかった。
Noiかjace、もしくはふたりともHIVなのではないか、なんていう噂も流れ始めた。

1990年代、前半。

そういう時代だった。

Gay=HIVという偏見が世間を騒がせていて、偏見だとは言いながらも、Gayたち自体が、この不治の病の得体の知れなさを恐れていた。
特効薬も、まだ、なかった。

Olivierが不安そうにしていたから検査に行かせた。
陰性だった。
思えば完全なSMの関係で肉体的な接触はキスくらいなのだから感染の可能性なんてほぼないのだけど、「キスはうつらないよね?」と不安そうに尋ねるOlivierに、自信を持って「Yes」と答えてあげられなかった。

だから、まだ、そういう時代だった。

それから、また、数ヶ月経った頃、突然、Jaceから連絡があった。
ホームパーティを開くから家に来てほしい、と言うことだった。
僕はNoiの好物のサーモンの巻き寿司を手作りし、Olivierはお気に入りのフランスワインを持って、NoiとJaceの住む家を訪れた。

玄関を開けるとJaceが笑顔で出迎えてくれた。
明らかに暖房の効き過ぎているリビングルームに入ると、アンティークの大きな揺り椅子に座ったNoiが「Hi」と笑った。

だけど、その顔はげっそりと痩せていた。

首から下は赤いタータンチェックのブランケットに覆われていたけど、その奥のどこにNoiの体があるのだろう、と不思議なくらい凹凸がなかった。

噂は本当だったんだ、と一瞬で悟った。

いつもなら、まず、Noiとハグをするのだけど近づくことさえできなかった。Olivierも棒立ちで、明らかに顔が引きつっていた。
僕はあわてて、お招きいただきありがとう、Noiの好きなサーモンの巻き寿司を作ってきたんだよ、なんて作り笑顔で早口に言った。

Jaceは、終始ハイテンションだった。
慣れない料理を作ってみたんだ、とテーブルに料理を並べた。
ほとんどがオーブンに入れるだけの冷凍食品だった。
真文の巻き寿司にはかなわないけどね、と言いながら、巻き寿司の一片をフォークで崩し、ほんの数粒の米とサーモンのかけらをフォークの先っぽにのせてNoiの口に運んだ。

「So delicious, thank you Mafumi(とても美味しい、真文、ありがとう)」

Noiは嬉しそうにそう言ったけど、それからは一切食べ物に手をつけなかった。

話は自然とパリ旅行の思い出話になった。
あの旅行は人生で一番楽しい旅だった、とjaceが大げさに言い、同意を求めるようにNoiを見ると、Noiはゆっくりと微笑んだ。

真文のお尻も見られたしね、なんて、とにかく、Jaceは一人で喋りまくっていて、いつもはお喋りなNoiの分まで頑張っているのは明らかだった。

OlivierはそんなJaceやNoiの姿にショックを受けたようで口数が少なかった。
だから、いつもは聞き役に回ることが多かった(英語力の問題)僕も、暖房の暑さに汗をかきながら一生懸命に喋った。

帰るころになり、僕はようやくNoiに一歩近づき、「楽しかったよ、ありがとう」と告げた。
「泊まっていけばいいのに」と渋るJaceに、Noiは「明日はまだ木曜日なんだから」と諭した。

それからNoiは僕の目を見つめ、不意に「生まれ変わったらMafumiになりたいよ」と言った。

部屋に沈黙が流れた。
今夜はずっとお喋りだったJaceも言葉に詰まっていた。

「I wanna become a boy with beautiful skin like you Mafumi(真文みたいに肌の綺麗な男の子になりたいんだよ)」

Noiは自らつくった沈黙をかき消すように、もう一度言った。

僕はなんて答えるべきか、頭をフル回転させていた。
Noiは生まれ変わってもNoiでいた方が絶対に人生得をする。
そうは思ったけれど、それを、今、告げるべきではない気がした。

「OK, so I will become you Noi(わかった、じゃあ、僕はNoiになるよ)」

そう答えた。
そう答えて、その夜、初めてNoiをハグした。
Noiの体は今まで抱きしめた誰よりも薄かったけど、薄いなりに、ちゃんとここにあってよかった、と思った。
だけどNoiには、もう、その小枝のようになってしまった腕を僕の背中にまわすほどの力さえ残されていないのだ、と言うことも知った。

「Thank you」
Noiが僕の耳元で言った。

「Thank you」
僕もNoiの耳元で言った。

それから1ヶ月も経たないうちにNoiは死んだ。

ロンドンで初めて出席した葬式では、Noiが好きだったと言うこの曲が終始流れていて「お葬式でサイモン&ガーファンクル!さすが外人!」と驚きました。今でもこの曲を聴くとNoiと思い出します。


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