『忠』 〜1991年 年上の男〜 vol.5
年上の(ものすごく)男だからと言って、すべてが大人らしく、すべてが正しく、すべてがきちんとしている、とは限らない。
それは自分が年齢を重ねて実感として解ることなのだけど、18歳の僕には、まだ、無理だった。
どうして大人なのに、そんなこともわからないの?
どうして43歳なのに、そんなこともできないの?
付き合いが深まるほど、日々、そういう思いが増えてきて、僕はイライラしたり、怒ったりすることが増えていた。
そのひとつが掃除だった。
忠はモノが捨てられないタイプで、せっかくの広いマンションの部屋がモノに溢れていた。
ある日、忠が仕事に行っているうちに、部屋を片付けてしまおうと決意した。
ありとあらゆるものを捨てた。
あの頃、まだ変わらずに大好きだったREBECCAを爆音で鳴らしながらノリノリで捨てた。
『One More Kiss』なんかも流れてきて、ちょっと昔の恋人などを思い出したりもして、そんなこんなも全部捨て去るように、部屋とマンションのゴミ置場を何度も往復した。
コーヒーメーカーが、現在使用中のもののほかに3台あった。
一生分のコーヒーメーカーを蓄えておくつもりか!と、その3台を捨てた。
モノがかなり減った部屋は美しかった。
僕は達成感を感じながら、がらんとしたリビングルームに手料理を並べて忠の帰りを待った。
完全に、できる嫁のつもりだった。
喜ばれるに違いない!と胸を踊らせていた。
だけど、帰ってきた忠はすぐに顔を真っ青にした。
そして、何も言わずにゴミ置場へ飛んで行った。
僕もすぐに後を追った。
3台のコーヒーメーカーを部屋にふたたび運ぼうとする忠に僕は叫んだ。
「なんで、コーヒーメーカーが4つも必要なの!?」
「うるせえ。人のモノを勝手に捨てるな!」
100パーセント真っ当な意見なのだけど僕は若過ぎた。
コーヒーメーカーを奪い返そうと忠の背中にしがみついた。
だけど忠にじょうずに振り払われて、ビンタを一発食らった。
生まれて初めて男に殴られた。
というか、生まれて初めて親以外の人間に殴られた。
僕は号泣した。
号泣しながら何かを叫んでいた。
夜の冷たいゴミ置場は完全に修羅場と化していた。
結局、僕が捨てたほとんどのモノが部屋に戻された。
手料理なんて、とっくに冷めていた。
…と、まあ、そんなこともあったけれど、忠とは僕が高校を卒業してロンドンのカレッジへ旅立つ前夜まで付き合った。
最後の夜、セックスを終えてベッドに並んで寝転ぶと忠が泣いた。
「え、泣くの?」
「そりゃあ、泣くよ。真文がいなくなるなんて、寂しいんだよー」
忠は、子どもみたいに泣いた。
そんな忠を抱きしめながら、この人には、ピアスの穴とか、お尻の穴とか、どんなに親しくなっても超えてはいけない一線(コーヒーメーカー)があることとか、それから、大人だって寂しくて泣くこととか、一年にも満たない付き合いだったけど、いろんなことを教えてもらったな、と思った。
だけど、僕は泣けなかった。
殴られた時はあんなに泣けたのに。
忠と別れるのは確かに寂しいけれど、でも、明日から始まる異国の地での生活への希望や興奮が優ってしまっていた。
「じゃあね。忠。ありがとうね。またね」
僕は、笑顔で忠の部屋を後にした。
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