『Olivier』 〜1993年 フランス人の男〜 vol.10
Noiが死んで、Jaceは行先も言わず旅に出て、OlivierはNoiほどのご主人様に出会うことを、もう、諦めたまま、僕のイギリスでの学生生活は終わりに近づいていった。
イギリスは外国人に対するビザの発給が厳しい。
僕くらいのスキルや学歴では労働許可など、まず、下りそうになかった。
かといって、僕も、これ以上イギリスに長居するつもりはなかった。
新しい国での生活は刺激的で楽しい。
だけど、数年も経てば慣れが出て、嫌なことだっていっぱい出てくる。
ロンドンは美しい街だと思う。
だけど、毎日どんより曇りがちで、夏が短く、冬が長い。
ソルトビーフを挟んだベーグルサンドイッチは最高においしいけれど
ブロッコリーやスパゲティはあまりにも煮られ過ぎている。
郵便物がうまく届かないことがあった。
郵便局に電話をすると「それは私の仕事ではない」といろんな部門をたらい回しにされた。
どうしたって日本に比べたらどこの国も、少し不便で、少し雑で、少し不親切なのかもしれない。
かと言って。
このまま日本へ帰るのも、ちょっと退屈のような気がした。
「So, how about moving to Hong Kong?(香港に引っ越すのはどう?)」
香港では、日本語と英語のバイリンガルなら仕事も見つかりやすいしビザも下りやすい、と香港人の友人から聞いた僕はOlivierに尋ねた。
「Good idea!」
中国と中国人をこの世で最も敬愛するOlivierは(そのわりに恋人は日本人でご主人様はタイ人だったのだけど)かなり乗り気だった。
こうして僕とOlivierは、さほど後ろ髪をひかれることもなくロンドンを発った。
マイルの関係で、僕は英国航空、Olivierは中国系の航空会社で別々に香港へ向かった。
Olivierの方が3時間ほど早く到着する予定だった。
九龍地区の重慶大厦というビル内にある『Happy Dragon』という安宿で落ち合うことになっていた。
初夏の香港に降り立った瞬間、一気に汗が吹き出すような湿気と温度に包まれた。
3年半ほどのイギリス生活で一度も感じたのことのない、懐かしいほどの暑さだった。
香港の空港は白タクが多いから、正規のタクシーの列に並んだ。
「重慶大厦」と告げると「Happy Dragon?」とドライバーは尋ねた。
あそこは人気の宿だからね、とドライバーは微笑んだ。
窓の外は夏の青空だった。
街の騒音がすごくて、人の声も大きかった。
明らかに汚れている空気の中でジョギングをしている人がいた。
器用に車を避けながら車道を横切る子どもがいた。
工事中のビルの足場が竹を組んだだけのもので驚いた。
昼休みなのかその上で職人たちが弁当を食べていた。
この街でOlivierと暮らす自分を想像した。
それは、そんなに悪くないことのような気がして、なんだか胸の奥がワクワクしてきて、僕も、微笑んだ。
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