床屋と図書館 その12
夏休みはほとんど毎日部活動で、秋のコンサートが終わると3年生たちは受験で部活に参加しなくなり、真文はようやくブラスバンド部が少し楽しく思えてきました。
そして、3月。
真文は卒業式を終えたばかりの藤田先輩に呼び出されました。
最後の最後に怒鳴られたり、殴られたりするのではないかと、薄暗い楽器倉庫に恐る恐る入ると、奥の方にあったドラムセットの椅子に藤田先輩は座っていました。
「おつかれ。今日の演奏、よかったぜ」
だけど、藤田先輩は穏やかでした。卒業式で真文たちが『思い出がいっぱい』を演奏したのを褒めてくれました。
「ありがとうございます」
「まあ、そんなにかしこまんなよ。俺は今日で卒業だ。ってことはオマエも今日で俺の弟子は卒業だからな」
藤田先輩の言葉に真文の心はふわりと軽くなりました。
「オマエはがんばったよ。俺のしごきにもよく耐えてがんばった。楽譜も読み込めるようになったし、いい音出せるようになったし、まあ、俺のレベルにはまだまだ全然達してないけどな」
真文はがんばりたくてがんばっていたわけではありません。藤田先輩が怖くって、ただ、がんばるしか道がないだけでした。だけど今日でそれも終わりかと思えば、藤田先輩に対する感謝の気持ちも生まれてきました。
「いままで、ありがとうございました。藤田先輩のおかげです」
真文は、深く頭を下げました。
「いやいや、オマエががんばったからだよ」
今日の藤田先輩はとことん優しくてちょっと気持ちが悪いほどでした。
「だけど、オマエにはこれからもがんばってもらわなくちゃいけないからな。だから、呼び出したんだ。これからは俺の代わりにこの部をひっぱっていけ。うちは女子が多いけど、いざという時はやっぱり男がビシッとやらなくちゃいけない。2年の男たちはだらしないやつばっかりだから、これからはオマエが中心になって部員たちを引っ張っていけよ」
それは無理な話です。
2年生の先輩たちが真文に厳しくしないのはバックに藤田先輩がついていたせいで、これからはどうなってしまうのか、真文にも想像がつきませんでした。それにそもそも真文はグループのリーダーを務めるような積極的なタイプではありません。
だけど真文は「はい」と大きな声で返事をして「がんばります」と嘘の決意を表明しました。藤田先輩は満足そうな笑顔で「うん、うん」と頷きました。
そして、言いました。
「まあ、だから、オマエにビシッと気合いを入れるためにな、俺の制服、オマエに譲るわ」
要らない。
真文は即座に、そう、思いました。
この中学校には先輩から後輩へ変型制服を受け継ぐという隠れた伝統がありました。
藤田先輩のドカンや短ランと呼ばれる校則違反の制服は、不良たちにとっては憧れのお宝物でしょうが、真文にとってはただひたすら厄介なものでしかありませんでした。
そんなものを持って帰ったら、まず、両親に叱られる。
そんなものを着ていたら、他校の不良に絡まれる。
「そんな…ボクになんか、もったいないです」
真文はかすかな抵抗を試みました。
だけど藤田先輩は「遠慮するなよ」と笑うばかりでした。
そして、ドラムセットの椅子からスッと立ち上がりました。腰のベルトを外し、フックも外すと、ブカブカのドカンはストンと小さな音を立ててあっという間に床に落ました
「脱ぐの、簡単だぜ」
藤田先輩は冗談めいてそう言いました。
だけど、真文はそれどころではありませんでした。
ドカンを脱いだ藤田先輩は紺色のトランクスを履いていたのです。この世の子供という子供たちが、全員、白いブリーフを履いているに違いないと思われていた時代の中で、中学生にしてトランクスを履いている藤田先輩がものすごい大人の男の人のように見えました。しかも、都会の、おしゃれな、まるでテレビや雑誌の中にいる男の人のように真文の目には映りました。
「お前も脱いで、これ、履いてみろよ」
それからの真文は言われるがままでした。履いていたズボンを脱ぎ、手渡されたドカンをはき、短ランを着ました。
「案外、似合うぜ」
藤田先輩はそう言ってくれましたが、ロッカーの窓ガラスに映る自分の姿は、ただのサイズを間違っている服を着ている冴えない男子でした。
だけど、そんなことは、どうでも良いことでした。
そんなことより紺色のトランクスでした。
こんな変形制服よりも、藤田先輩が、今、履いている、その紺色のトランクスが欲しい。心の底からそう思いました。喉から手が出るというのはこういうことを言うに違いありません。
そんな真文の気持ちも知らず「それを着て、ビシッとやってくれよ」と藤田先輩は言いました。「それが俺の弟子としての最後の役目だからな」と満足そうに告げながらカバンにしまってあった学校指定のジャージを着て楽器倉庫を出て行ってしまいました。
薄暗闇の中にひとりポツンと残された真文の頭の中には、いつまでもいつまでも、紺色のトランクスを履いた藤田先輩の姿ばかりが永遠のように残されていました。