『忠』 〜1991年 年上の男〜 vol.6
僕が40歳を過ぎたころ。
遅めの出勤で地下鉄に乗ると、前の席におじいさんがいた。
「このおじいさんはもうすぐ死ぬ」
見た瞬間、そう確信した。
肌の青白さ。
唇の青さ。
こけた頬。
床に落とした視線の弱さ。
やせ細った体。
数年前にガンで亡くなった、叔母の死の直前の様子にそっくりだった。
その時、視線を感じた。
おじいさんの隣に座る、おじいさんよりやや若いおじさんが僕を見ていた。
派手なセーターを着ていたおじさんは見るからにゲイだった。
あまりにもじっと見つめられた。
「ははん。あなたは僕に興味があるわけね。ですが、こちらとしてはあなたにまったく興味ありません」
そんな感じの視線を返した。
いや。
だけど。
ちょっと、待て。
僕はこのおじさんを知っているんじゃない?
そんな気がした。
遠い昔の記憶の中に、おじさんの若かりし頃の顔がもやもやと浮かんできた。
やっぱり、僕はおじさんを知っている。
おじさんは、忠が営むシルバーショップの店員だった。
そして、忠の昔の恋人でもあった。
だから、当時、僕はこのおじさん(当時はおじさんではなかったけど)に、度々、嫉妬した。
「今はもう何もないよ。ただのオーナーと店員の関係だ」
忠は何度もそう説明してくれたけど納得がいかなった。
あんな店員クビにして!くらいの勢いで嫉妬をすることもあった。
…なんていうことを懐かしく思い出して、ハッとした。
そうだ。
目の前にいるおじいさんは、忠だった。
僕が40代前半だから、忠は60代半ばのはず。
それなのに80歳にも90歳にも見えるほど痩せこけた老人は、見れば見るほど、やっぱり、忠だった。
息が止まるような思いがした。
何があったのか?
何の病気なのか?
声をかけるべきか?
だけど、声をかけるタイミングはすでに失ってはないだろうか?
それに。
もしも、僕が忠だったら、昔の恋人に、しかも20歳以上も年下の恋人に、今の姿を見られたくない、ような気がする。
…なんて言いながら、結局は、僕に勇気がなかったのだ、と思う。
僕は、次の駅で下車した。
隣のおじさんがそんな僕の姿をずっと見ていた。
このおじさんは、僕が忠を別れた後も、忠と一緒にいて、僕がロンドンへ行って、東京へ帰ってきて、社会人になって、何人もの人と出会ったり別れたりを繰り返している間にも、忠と家族のように一緒にいて、こんな姿になった忠の面倒も見ているのだな、と思った。
嫉妬なんかして、ごめんなさい。
心から、そう思った。
この世界のどこかで忠が元気でやっていたらいいな、と願う。