『淳一』 〜1990年はじめての男〜 vol.1
新宿二丁目という街を初めて訪れたのは17歳の春休みで、その年の夏休みのころには、もう、ここが僕の自分の居場所と感じていた。
あれは八月の日曜日。
バイト終わりの夕暮れ時。
ウォークマンを聴きながらガードレールに座っていたら、男の人に声をかけられた。
「なにを聴いてるの?」
「REBECCA」
「1番好きな曲は?」
「『Nervous But Glamorous』」
綺麗に日焼けした人だった。
色白で、陽に焼けると肌が真っ赤に腫れ上がってしまう僕が、生まれ変わったらぜひなりたいと願っているくらいの褐色だった。ジーンズにタックインした白いTシャツがよく似合う。
「俺は『OLIVE』だな。ねえ、うち来る?」
「え?」
「うちにおいでよ」
二丁目で男の人に誘われることに少しは慣れてきたけれど、こんなに唐突で軽いのは初めてだった。だけどそこが格好良く思えた。都会的というのは、こんな軽やかさのことを言うような気がした。
「うん、いく」
本当は誰かに聴こえてしまいそうなくらい心臓がバクバク鳴っていたけど、僕は軽やかにガードレールから飛び降りた。
新宿通りを西武新宿線の駅へ向かって歩いた。
「名前は?」
「真文」
「俺は淳一。高校生?」
「高2」
「二丁目にはよく来るの?」
「初めて来たのは今年の春休みで、それから時々」
「東京の子?」
「うん。下町の方だけど」
「高2で二丁目デビューなんて、さすが東京の子は進んでるなー」
さらっさらの髪。耳たぶに小さく光るピアスがふたつ。そんなお洒落な雰囲気の大人の人に「進んでる」なんて言われて嬉しかった。
「淳一さんは東京の人?」
「俺は福島」
「でも東京っぽい」
「田舎もんだよ。大学出てから上京してから自分がゲイだって気づいたから、こっちの世界もまだ4年目。真文と違って遅咲きだよ」
名前を呼びつけにされてドキッとした。
生まれて初めて西武新宿線に乗った。
東京の下町に生まれ育った僕にはまるで縁のない電車だった。
「西武池袋線なら乗ったことあるんだけど。中2のブラスバンド部のコンクールの時」
「なんの楽器やってたの?」
「トランペット」
「ああ、だから、そんな可愛い唇をしてるんだ」
どうしてこの淳一という人は、部屋に誘う時も、名前を呼びつけにする時も、唇を褒める時も、そよ風が吹いたみたいにさりげなく軽やかに言葉にできるのだろう?躊躇やわざとらしさが1ミリもない。
「自分では嫌いだけど、唇」
「そうなの?」
「たらこ唇だし」
「だからいいんじゃん。俺は唇が薄いから羨ましいよ」
僕からしてみれば淳一の三日月みたいな形をした唇の方が、何倍も綺麗で素敵に見えた。そこのところを淳一みたいに、さりげなく軽やかに伝えられたらいいのにな、と思った。
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