K-1暴露話(「まっすぐに蹴る」佐竹雅昭・著より)
K-1や格闘技界の裏側について、元K-1ファイターの佐竹雅昭氏が興味深い暴露をしています。
K-1立ち上げ時、石井和義館長から「お金は二人で折半にしよう」と言われたものの、実際には一度も利益の折半はなかったそうです。さらに、トーワ杯カラテで獲得した優勝賞金500万円のうち30%を館長に要求され、2回で計300万円を渡したというエピソードも明かされています。
K-1ジャパンの選手たちについては、甘やかされていたと指摘しています。負けても善戦すれば拍手がもらえるなど、闘いの厳しさに触れない環境だったと振り返っています。例えば武蔵選手は金的を蹴られて試合が終わることが多く、佐竹氏が倒せた相手にも負けていたそうです。
佐竹氏自身の経験としては、K-1の試合は館長の意向でどんどん組まれ、「しんどいから辞めさせて」と訴えても聞き入れてもらえなかったと語っています。度重なるKOダメージで頭に問題が生じ、ICUに3回入院。ドクターストップがかかっても試合に出され続けたそうです。そのため試合前には「もし植物状態になったら」と考え、部屋と事務所を掃除して身辺整理をしてから会場に向かっていたというのです。
さらに衝撃的なのは、頭蓋骨陥没の大怪我を負った際も、リングドクターの対応は「自然に治る」と軽く、結局自分で病院に行って手術したという事実です。PRIDEデビュー戦のマーク・コールマン戦は全く準備不足で、74秒で敗れたことや、吉田秀彦戦は急な依頼で練習もせずに臨み、あっさり負けたことなども告白しています。
K-1では試合が決まってから2週間を切ってから言われることもあり、満足な準備ができないまま試合に出ていたそうです。テレビ局の意向で試合が組まれることも多く、選手の意思は軽視されがちだったと指摘しています。
佐竹氏はマスコミには距離を置き、自分の記事は読まないようにしていたそうです。記事を読むと影響を受けてしまうからだと説明しています。K-1は当初ヘビー級ありきだったが、次第に興行ありき、ショーありきになっていったとも振り返っています。
佐竹氏自身は広告塔として使われ、テレビ出演などのギャラの3割は道場に納めていたそうです。一方で他の選手たちは「佐竹ばかりがテレビに出て」と僻んでいたものの、後に同じように売り出すようになったと皮肉っています。
K-1のネーミングには「カズヨシ一番」という意味もあり、商標登録を急いだエピソードなども明かされています。試合で記憶が飛んだり、意識がない状態で闘っていたこともあったそうです。頭の問題を「口外するな」と言われ、K-1のイメージのために隠し続けたとも告白しています。
これらの暴露から浮かび上がるのは、選手を守るよりも興行を優先する姿勢への疑問です。後輩の選手が亡くなったときも、翌月にはまた試合に出されるなど、選手の健康よりも興行が優先された実態が明らかになっています。石井館長は「どうでもええねん」と試合結果を軽視する発言をしたり、態度が二転三転することがあったそうです。
K-1の契約は口頭で済まされることが多く、選手に不利な状況が生まれやすかったことも指摘されています。強豪選手との対戦を「美味しい」と勧められても、実際は厳しい試合ばかりだったというのも興味深い暴露です。PRIDEでも適当なマッチメイクがされ、佐竹氏の実力以上の選手と戦わされることもあったそうです。
これらの暴露話からは、K-1や格闘技界の裏側で選手の健康や意思よりも興行やテレビ局の意向が優先されがちだったこと、金銭面での不透明さ、選手管理の問題点などが浮かび上がってきます。佐竹氏の赤裸々な告白は、格闘技界の光と影の部分を鮮明に描き出しています。
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