理由求めすぎ問題
「何考えてるかわからない」といわれることがある。私も人が何考えてるかわからないし、私は何も考えてない時だってある。
じゃあなぜ「何考えてるかわからない」というのか?
コミュニケーションエラー的に考えると、相手の言い間違いの可能性もある。「何考えてるかわかるようにして欲しい」ではなく、例えば「質問したときに、はっきり回答がしてほしい」と思っているのかもしれない(私は作業に集中していて話すのが面倒なときに、適当に返してしまう癖がある)。また、本当は「こちらが望む通りの反応をしてほしい」と思っているのを婉曲的に表現したのかもしれない。
もし「何考えてるかわからない」が言い間違いでないとしたら、「相手が何考えてるかわかるものである」と考えるのだとしたら、それは思い上がりなのでは、と思ってしまう。しかし、後から言葉の真意について一人で考えてもしょうがない。もやもやするのでこの記事を書いてみた。
じゃあ、人間がよくやる思い上がりについて考えてみたい。例えば、「人間には自由意志がある」という人がいる。でも意志の前に行動が先に起きるという研究がある。何でも自由意思があると考えるのは、思い上がりだ。
「人間は合理的な生き物だ」という人がいる。でも合理的に行動したように見えて、行動した後に行動の理由を後付けするということを私たちは日常的に行っている。「合理的」な理由に基づいて行動するのではなく、行動した後にその理由を作って行動を「合理化」する。「人間は合理化する生き物だ」と言える。なんでも合理的な説明がないとおかしいと思うのは、思い上がりだ。
意志の前に行動が先に起きるという研究の参考資料
行動した後にその理由を作って行動を「合理化」するの参考資料
もう一つの例がこちら
何気ない行動について理由の説明を求められることがある。自分がやっていることもある。でも人間、なんでも理由があって行動してるわけではないよなと思う。自分の行動について、自由意志か否か、合理的な行動か後付けの理由か、考えてみてもわからないけれど、「合理的経済人」のようなマッチョな価値観から離れたコミュニティが増えていったらいいなと思った。
余談
この一連の話は私の推しの学者である社会心理学の小坂井敏晶さんの本で知りました。おすすめです!!
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