音楽ポエムに心酔する人たち

"音楽には価値がある"というある種の啓蒙のような発言は多い。

ジャンル問わず、音楽という一大芸術をそのままデカすぎる主語として振り回して「音楽ポエム」とも言うべき謎の文書をTwitterやらFacebookやらに投稿する人を目にする機会が、コロナ禍を通してなんだか増えたように感じる。

個人的に、芸術の価値というもんは現実世界において芸術を行う者と芸術を受け取る者がいる時空間でのみ発揮されるものであり、SNSのような間接的にしか芸術と触れ合わない場でその価値を底上げするような行為の良さを感じることができない。(作品や演奏者の一情報を得る場として活用する事とは別に、"音楽"というあまりにも大綱的な主語にポエムを用いてその価値に言及する、という意味である。)

例としてそういうポエムを挙げると「音楽の力は偉大」「本気で音楽と向き合う」「音を楽しむと書いて音楽」「音楽は人を救う」など枚挙にいとまが無い。「音楽とは人そのもの」とか「一音入魂」も同じロジックで出来ているように思う。

こういったポエムには当然反意があり、「音楽の力は偉大」には『音楽の力について啓蒙することで自己肯定感に不安を抱える音楽家の同意を得ることができる』とか、「本気で音楽と向き合う」には『本気で音楽と向き合うつもりは毛頭ないが、本気という言葉でパフォーマンスをすることで他者からの一定の承認を獲得でき、短期的な自己保身として利用する』といった心の脆さが漏れ出ているパターンが往々にしてある。

このことに関しては、そういった語法でしか自身を支えられないただの馬鹿であるとか、タイミング的に精神的に弱っているから仕方ないな、等の目を向けてしまえば片付けられるのだが、僕がモヤっているのはその「音楽ポエム人口」である。

僕が見る限り、「音楽ポエム」に心酔し、日常会話のような勢いでSNSに香ばしいポエムを連投する人間とそれに好意的なリアクションを起こす人間はかなり多く、しかもその年齢層は下は10代から上は50代までかなり幅広い、ということに驚きを隠せない。というのが本題である。

かなりしっかり活動しているベテランの音楽家などにも、音楽そのものの話をするのではなく、音楽という「言葉」そのものを巧みに操り下卑た自己保身や自己肯定に使う層が存在するという事実は、なんかあんまし良くないっていうか、少なくとも僕はドン引きする。
世界で僕一人だけがドン引きしているのならいいが、数名の友人に当たってほぼ同じ感想を抱くことが多いので多分けっこうな人が「音楽ポエム」にドン引きしているということになるが、当人の音楽ポエマーにはその自覚はあるのだろうか。

全くもって、何を発言しようが、息をするように臭すぎる音楽ポエムを吐き出そうが別にいいとは思うが、それらの危険な声に共鳴し、「わかる」みたいなゴミ共感をする人間があまり増えないといいな、と願っている。


そう。

──"音楽の未来"の為にも…ね。

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