はじめに
noteを知って、どう使おうか考えているうちに長らく放置してましたが、いろいろ身辺状況が変わった今、雑念・雑記を残すのに使おうかなあと思い至りました。
なにか思ったとき、Twitterでつぶやこうとしても、言葉にして言おうとしても、ついつい「これを目にした人がどう思うか」「聞いた人がどう思うか」を考えてしまい、ならいいや、と止めてしまうことが多々。そうしているうちに、自分が何を思い、何を考えていたのか、時が過ぎて忘れてしまうことが増え……そのくせ、そのときの感情だけは熾火のようにくすぶり、わけもなく心が重く苦しくなったりの繰り返し。
思えば、私のコミュニケーションスキルというやつは常に「波風立たないように」に特化していて、自分の感情を出すときは周囲の波の揺らぎを超えない程度におさめることが第一になっている気がします。
……とはいえ、それっておそらく大多数の人が「そう」なんだと思います。自分の感情を忖度して、周囲を思いやりつつ表明している。それが「社交」ってやつなんだと。
でも、そろそろ人間歴60年。
物心ついてからは50年ちょっと、でしょうか。
忖度し続けているうちに、自分の感情ってものをおろそかにしすぎたんじゃないかって。
「つらい」「苦しい」「いやだ」
特にそんな負の感情を「みんなそうなんだし」「自分だけじゃないし」「そんなものを見せられても、自分以外の人は困るだけだし」と己の中に閉じ込めたところで消えるわけでもなく。
それらを「なかったこと」にしても、本当になかったことにはならないのに、なかったふりで続けていくうちに、自分の感情がどんなものだったのかわからないまま、感情の苦さだけが消えない。
なんかもう、そういうの、いやだなって。
まあ、簡単に言っちゃえば、
タンスの角に足の小指ぶつけたら「いってぇぇぇ!!!」って叫んだほうが痛みが和らぐのが早い気がする。
それを見た周りの人の誰かが「あ~、それって痛いよね」って思ってくれたり、そう言ってくれたりしたら「だよねだよね」って、きっとありがたく思う。
「バカじゃないの?」「その程度で騒ぐな」って思われても言われても「だよねだよね」ってきっと恥ずかしく思う。
でも、どっちにせよ、自ら発した感情は何かの響きになって周りに広がり、返ってくる。そしてそうなって初めて己の中に溶け込む気がする。
うまく言えなくてはがゆいけど、自分の感情ってそうやって吐き出してから戻ってこないと、消化できないんだなあって。
なので、まあ、ここではこれからあまり忖度しないで、書いていこうかなって。
そういうことです。
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