泡石箱や~! ~しょむ系(≠泡沫)候補詰め合わせ~
目次
◎超人たち
◎歌う政治活動
◎ダウンサイジング
◎スカウト!
◎候補者の遵法意識
◎ただ出るだけ?
◎「有効投票」の是非
後記
◎超人たち
しょむ系候補(諸派・無所属系泡沫候補、ミニ政党所属候補)の中には、人智を超越した極めて強烈な個性を放つ政策提言や宣伝活動を行なう候補も多数存在する。これらの候補にはファンも多い。中でも特に強い印象を残す候補をピックアップ。
○斉藤旾義 (はるよし)
「全ての政治権力をマッカーサーから貰っており、政治を行なう資格があるのは自分だけ」と主張し、1989年参院選と1993年衆院選に出馬。独特の主張と手書きの選挙公報は強烈なインパクトを残し、北野誠(芸人)や竹内義和(作家)らのラジオ番組「誠のサイキック青年団」では「京都の斉藤さん」として取り上げられ話題となった。
現在は印刷会社アルバイト。政治活動からは完全に撤退しており、突撃インタヴューをした立命館大学サイキック研究会(「誠のサイキック青年団」のリスナーサークル)に対しては「そっとしておいてほしい」と発言している。
○植木宗昌
1996年埼玉県知事選に出馬。「石川さゆり(歌手)を首相にする」と主張。自らを「世界で唯一の天才児」と名乗り、手書きで「ウッフッフッフ・・・・。」「イッヒッヒッヒ・・・・。」などと書かれた選挙公報は話題を呼んだ。
現在は「株式会社イオンド大学」(日本平和神軍系列の「学位」販売業者、現在は破産)から名誉博士号を貰ったと主張し、研究所を運営。アルバイトを募集している。
○蜷川澄村
主に京都で活動。実業家で、駐車場、バックパッカーや神社仏閣巡礼者向けの安宿、人材派遣会社等を経営。「維新政党・新風」党員。
2000年京都市長選などに出馬。「京都市の職員をすべて高齢者にする」「宇治にゴミ処理総合大学を作り日本中のゴミを集めて研究させる」「ビルの側面も土地とみなし、売買できるようにする」などの個性的な政策を掲げ、「維新政党・新風」(当時は京都に本部があった)および「いのちとみどりの市民・農民連合」から同時に推薦を受けるも落選。後に自由連合でも活動。
近年は法螺貝を吹き鳴らすパフォーマンスや、「うかれば(当選すれば)民主党に入る」などの発言で話題となっている。
特徴的な政見放送や選挙公報、選挙ポスター、街頭演説などが強烈な印象を残し、それをきっかけに政治への興味を強めた人もいるのではないだろうか。超人候補こそ選挙の華であるという意見もある。
◎歌う政治活動
メディアの発達に伴い、政見放送で歌うなど、政治にエンターテインメント要素を盛り込む候補者が出てきている。本項では、政治活動に歌を取り入れている候補者を紹介する。
○深作清次郎
黒龍会の内田良平に弟子入りしたと称し、右翼運動に参加。戦後は反ソ決死隊、議会主義政治擁護国民同盟、世界連邦日本国民会議(南俊夫一派)、大日本独立青年党(清水亘一派)、日本国民政治連合(赤石貞治一派)、正義と人権を守り明日の日本を考える救国斬奸党 (救国党、福田拓泉・撫子夫妻一派)などに所属し、各種選挙に出馬。首長選挙では日本青年社(住吉会系)の推薦も受けた。
政見放送では軍歌「独立守備隊の歌」「橘中佐」「戦友」などを歌った。
○エイズ根絶性病撲滅国民運動太陽新党
浪曲師の花輪治三(花輪春造とも、芸名:玉川勝若)が、救国党の福田拓泉らの支援を受け、1987年に「太陽振興会」として結党、後に「太陽新党」に改名。1989年参院選に出馬し、自作の「エイズいやいや音頭」を歌い、公娼制度復活や日本人の純潔保持などを訴えた。「いやいや音頭」はカセットテープで販売もされていたという。
花輪は1986年に、老人福祉党の候補者として選挙に出馬している。
○安西愛子
童謡歌手。1971年、自民党公認で参院全国区に出馬し当選、以降全国区・比例区候補として3期務める。
1989年、70歳定年制を理由に公認を外され、引退を勧められるも拒否。「太陽の会」を結成して参院選に出馬した。政見放送では童謡「てるてる坊主」を歌い、「女性は家庭を守り、尽くすべき」と訴えた。
現在は日本福祉党顧問、日本会議副会長などを務めている。尚、太陽の会の選挙候補者には、板垣英憲(政治評論家)などもいた。
○真理党
1990年衆院選に関東地方で25人を擁立し、確認団体として出馬。毒ガス・サリン散布による無差別大量殺人などの各種事件を起こしたカルト宗教団体「オウム真理教」(後継団体に「Aleph(アレフ、アーレフ)」、「ひかりの輪」、「ケロヨンクラブ」など)を母体とする。党首は松本智津夫(麻原彰晃)。
街頭で、信者の作詞作曲した「彰晃マーチ」「魔を祓う尊師の歌」「はばたけ!明日に向かって」などを歌いながら、麻原の等身大マスコットや象の着ぐるみを着用して踊るなどのパフォーマンスを行なった。候補者は大勝を確信していたが、結果は全員供託金没収で落選するという大敗を喫した。麻原は不正選挙を主張し、数々の事件を起こすに至った。
尚、この衆院選出馬直前に、松本らは坂本堤弁護士一家の殺害を実行している。
○内田裕也
1991年都知事選に出馬。スポーツ平和党党首で参院議員だったアントニオ猪木(猪木寛至)が、佐川清(佐川急便会長)、福田赳夫、森喜朗、三塚博(いずれも自民党代議士)らに説得され、磯村尚徳(元NHKキャスター、自民党・公明党・民社党・スポーツ平和党推薦)と政策協定を結び都知事選出馬を撤回した事に影響されての出馬だった。
政見放送はほぼ全て英語、一部フランス語でスピーチし、前半はジョン・レノン「Power to the People(邦題「人々に勇気を」、直訳「人民に力を」)」、エルヴィス・プレスリーらが歌いヒットした「Are You Lonesome Tonight?(邦題「今夜はひとりかい?」)」を、後半は頭脳警察「コミック雑誌なんか要らない」を熱唱した。
尚、内田の出馬の顛末や、政見放送の一部は映画「魚からダイオキシン!!」(監督:宇崎竜童)で見る事が出来る。
又、この都知事選には中松義郎(ドクター中松、新自由クラブ・サラリーマン新党・新政クラブ・環境党・ 主権在民党・UFO党・新文明党・新民主党推薦)、東郷健(雑民党)、浜田マキ子(自民党代議士浜田卓二郎の妻)、対馬テツ子(緑の党三橋派)、福田拓泉(大日本誠流社、北方領土返還推進連盟推薦)、橘高明(アジア建国党)、岡田三男(全日本ドライバーズクラブ)、志良以榮(国民党)、南俊夫(世界連邦創設委員会)、三井理峯(「我は平民」著者)、増田眞一(政事公団太平会)らが出馬していた。
○日本福祉党
1986年、老人福祉党として有田正憲(右翼活動家)や林隆造(元自衛官)らを中心に結党。有田は日本国民政治連合、議会主義政治擁護国民同盟などの結成にも関わっている。1987年には、福田拓泉の救国党と同一住所を事務所とした。1988年には、林隆造が「老人福祉研究会」を結成、後に林は松崎泰夫や東三元らを迎えて別個に老人福祉党を結党し、分裂。更に花輪治三は、福田らの支援を受け太陽新党を結党し独立。その後有田派は1991年で活動を停止し、老人福祉党は林・松崎・東派一本となる。1995年、日本福祉党に改名。安西愛子(元太陽の会、日本会議副会長)を顧問に迎える。
1995年参院選では、党首の東が政見放送で「故郷」「四季の歌」を手話付きで歌った。手話は地元の手話サークルで習った物だという。1996年開催の10周年記念大会では、安西、日野原重明(医師)、田中真紀子(代議士)らが祝辞を述べた。その後は徳田虎雄らの自由連合の公認として国政選挙に候補者擁立をしていたが、2001年に供託金高騰などを理由に候補擁立断念を発表。以後、活動は停滞している。
○斎藤寿々夢(斎藤進)
演歌歌手、不動産実業家。1992年に、進歩党(新自由クラブの後継政党)から分裂した進歩自由連合から参院選に出馬。1995年には文化党代表として、1998年には無所属で、それぞれ参院選に出馬した。1998年参院選では、自ら作詞した「こんな日本に誰がした(BUBBLE)」を政見放送で熱唱し、歌詞を選挙公報やビラに掲載した。
現在は故郷の栃木県で事業と政治活動を行なっている。
○川上俊夫
1999年都知事選に出馬。ニューヨーク大学大学院修了後、山一證券、メリルリンチ、シティバンク勤務を経て、現在ベンチャー企業(国際電話会社)社長。シェアハウスも経営している。
政見放送では、他候補を「甘言を弄している」と非難し、「自身のホームページで、メールを通じて支持者と意見交換を行なっている」など、後のネット選挙にも繋がるようなアピールを行なった。後半で童謡「ほたるこい(蛍来い)」を歌い、他候補の政策を「甘い」、自身の政策を「苦い」と表した。
この都知事選には、津田宣明(ノブアキ・ツダ・インタナショ・ジェネ・マネ)、佐藤文治(政治団体「21世紀の星」公認、「健幸美・整体院」経営)、大網義明(僧侶)、羽柴誠三秀吉(三上誠三)、立岡正一(政治団体「防人」推薦)らが出馬した。
○青島幸男
2004年参院選に、東京都選挙区から出馬。この選挙では従来の全国区・比例区ではなく、地方区での出馬となった。作家・俳優・映画監督・歌手・画家などマルチな才能を発揮し、1968年、市川房枝に賛同して参院選に出馬、当選。後に第二院クラブ(野坂昭如、コロムビア・トップ、いずみたく、山田俊昭、佐藤道夫、青島美幸らが所属)の代表を務める。1995年には東京都知事に就任するも、1999年に都知事を引退。2001年参院選には落選している。
政見放送では、青島が作詞し植木等が歌ってヒットした「ドント節」の替え歌を冒頭・中盤・後半の計3回、身振り手振りを付けながら陽気に歌い、合間に参議院の独立の重要性を訴える演説を行なった。
この参院選には、増元照明(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会事務局長、特定失踪者問題調査会常務理事)、上田哲(元「社会党」委員長、元護憲新党あかつき委員長、元日本社会党教育宣伝局長)、又吉光雄(又吉イエス、世界経済共同体党代表、元世界キリスト教会牧師)らが出馬した。
○外山恒一
2007年都知事選などに出馬。ストリートミュージシャン。当初は「日本破壊党」などで無政府主義者(アナーキスト)として活動し、現在はファシストに転向。「我々団」を結成し、政治活動を展開中。街頭ではギターを演奏し、歌いながら演説を行なった。
この都知事選には、黒川紀章(建築家、共生新党党首、右翼団体「日本会議」代表委員)、桜金造(コメディアン、創価学会員)、内川久美子(内川あ也、風水研究家)、山口節生(不動産鑑定士、政治団体「東西冷戦後又左右のイデオロギーの終えん後、イデオロギーを超えてカントの『永遠平和のために』の反改憲論をよく読み、ヒットラー的自由な解散権の恐怖と核爆弾、徴兵制を目指す改憲を政治的強さの立場から絶対阻止する団体」代表。略称「カント永遠平和論での最高裁反改憲訴訟の会」「カント平和で親ナチ的改憲阻止最高裁訴訟会」)、鞠子公一郎(ディレッタント、好事家)らが出馬した。
○マック赤坂
実業家、セラピスト。2007年港区議選より政治活動を開始し、各種選挙に出馬。街宣活動では、尾崎豊の「15の夜」、植木等の「スーダラ節」、美空ひばりや加山雄三などの楽曲を歌い、「スマイルダンス」「スマイルビクス」と呼ばれる独特のダンスやエアロビクスを踊りながら演説を行なっている。その激しい活動の様子は、藤岡利充(映画監督)の映画「立候補」及び著書「泡沫候補」(ポプラ新書)に詳しい。
○松下満幸
2010年長崎県知事選に出馬。元旋盤工、元ドライバー。サテン(繻子織り)地でピンク色のピカピカ光るワイシャツを着て登場し、独特のしゃがれ声と節回しで浪曲(浪花節)「清水次郎長伝」を歌いつつ、左の手の平に目玉の様な不気味なマークを書き、その手で机を激しく叩きながら「ナンバーワンッ!ナンバーワンッ!ワンワンッ!」と繰り返し絶叫する姿や、「松下幸之助の息子」を自称したり、「英語の勉強」と称して英語の簡単な挨拶を披露したり、演説中突然泣き出したりするなどの姿は、見る者に衝撃を与えた。
この選挙では山田正彦(無所属)ら7人が出馬したが、松下は最下位で落選。選挙公報提出以外一切選挙活動を行なわなかった山田にも負ける結果となった。
○新藤伸夫
打出党代表、学生向けアパート経営者、高校社会科教師。2013年参院選に、京都府選挙区から出馬。自らを「そのままマイケル・ジャクソン」と主張。政見放送では、「君が代」の歌詞を改変し、独自のメロディを付けたオリジナルソング「国歌・我が君が代」や、党歌「打出の小槌」を熱唱した。
新藤は京都大学理学部及び文学部卒。マック赤坂とは同い年で、出身大学も同じだが、面識があったかどうかは不明。
その他、歌手活動の経験がある政治家としては、ミルク082(ミルクおやじ、村川徳浩)、喜納昌吉、青木愛、三原じゅん子(三原順子)、川条志嘉、中山千夏、野坂昭如、山口淑子(李香蘭)、石田一松らがいる。又、田嶋陽子のように、議員退任後に歌手活動を始めた者もいる。落選した候補者としては、三宅洋平、ZAKI(野崎昌利)、梅蘭、千葉マリア、戸川昌子、玉元一夫(フィンガー5)、嵐(横浜銀蠅)、林寛子(扇千景の本名とは別人)、若井ぼん、月亭可朝、庄野真代、伊藤洋介(東京プリン、元シャインズ)、雅(金本真広、GELLONIMO)、TOKMA(椙杜徳馬)、河口純之助(元ザ・ブルーハーツ)、大門一也(元Project DMM)らがいる。
更に、候補者の演説や歌に伴奏を付けたり、候補者の演説を繋ぎ合わせて新たな音楽にしたりした動画(所謂「政見放送MAD」)が各種投稿サイトに掲載されている。政治活動と音楽の融合を図る試みに、今後も注目である。
◎ダウンサイジング
政治を志す者の傾向としては、市区町村議会議員や都道府県議会議員を経て国政を目指すという様に、経験を積むに従って活動範囲を広げていく事が多い。しかし、その逆もある。此処では、国会議員から地方議員、都道府県議から市区町村議、首長から議員など、活動範囲をより小さくしていった議員や候補を紹介する。
○鈴木東民
ジャーナリスト。読売新聞社に入り、後に編集局長となる。労働運動でも活躍。戦後は共産党に入党し、参院選や衆院選に出馬したが落選。参院選では全国区ではなく、当選確率の低い岩手県選挙区に回された事に不満を漏らし、岩田英一(共産党准中央委員、元都議、後に右翼に転向)らと激しく対立していたという。その後共産党を離党し、労働者農民党に移籍。衆院東京5区に出馬したが落選した。
落選後は大学講師を務め、1955年、反公害・反自民・反労働組合を掲げて釜石市長選に出馬し当選。革新市長と捉えられていたが、一方で在職中は労組の活動抑制に奔走し、椎名悦三郎(元自民党副総裁、無所属の会・椎名素夫の父)に絶賛された。連続3期務めたが、1967年に落選。しかし同年の釜石市議選に出馬し、トップ当選を果たす。
市長落選直後の市議への転身については、トップ当選という事で人気を見せ付けた一方、冷ややかな目で見る向きもあったという。市議2期目を目指した1971年の市議選では、現職にもかかわらずブービーで落選、そのまま引退した。尚、鈴木の半生については鎌田慧「反骨」(講談社)に詳しい。
○尾形智矩
2度の衆院選落選を経て、1977年苅田町長選に当選。3期目途中の1986年、衆院選に自民党公認で出馬し当選する。しかし、87年に町長在任中の住民税8千万円が使途不明金となっており、裏金として選挙資金に使われたのではないかという疑惑が持ち上がり、業務上横領で刑事告発される。最終的には不起訴となったものの、尾形の資金管理者が自殺したり、苅田町が尾形らに住民税5千万円流用の損害賠償請求訴訟を起こすなどの事態となった。
1990年衆院選に落選、1991年苅田町議選に当選。国会議員が町議会議員に転じた事例は珍しく、当時は話題になったという。1期途中の1994年に苅田町長選に出馬し落選。以後、2008年に死去するまで4回町長選で落選を続けた。
○中村力
郵政官僚を経て、1990年衆院選に旧岩手1区から出馬し落選、1993年衆院選に当選。無所属だったが、父・中村功が組織する政治学習・政治家養成団体「経営者漁火会」や右派政党「青年自由党」の系列候補として注目された。当選後は自民党会派に入る。
1996年衆院選に落選後、1998年参院選に自民党・青年自由党推薦で出馬するが、椎名素夫(後に政党「無所属の会」代表)らに敗れ落選。2000年、2003年衆院選でも落選する。2003年からは自民党に入党するも、2005年以降は公認を外され、暫く政治の表舞台から姿を消していた。
2010年、みんなの党に入党し、11年には岩手県知事選出馬を表明するも、直前で断念。代わりに県議選に出馬するも落選した。
父の中村功は東日本ハウス創業者。功は銀河高原ビールや大江戸温泉物語、けんじワールドなどの経営にも関与し、経営者漁火会、青年自由党などを組織、旧日本軍を賛美する映画「プライド・運命の瞬間」「ムルデカ17805」を制作するなど、幅広く経済・政治活動を展開していた。
○倉林明子
福島県西会津町出身で、父は元町議会議員の三瓶猛。看護師を経て、1994年京都府議補選(中京区選挙区、定数1)に共産党公認で出馬し当選。しかし、任期途中の1995年に京都市議選に出馬し当選、5期務めた。
市議任期途中である2013年、参院選に京都府選挙区から出馬し当選。この選挙では、対立候補の1人である北神圭朗(民主党元代議士)の陣営が自民党・公明党に票の融通を要請したり、京都府知事・京都市長らがこぞって倉林の落選運動を展開したりするなど、熾烈な選挙戦が展開された。
○知久馬二三子
中学校卒業後、三朝町職員・図書館長等を経て、1996年衆院選に鳥取1区と比例中国ブロックの重複立候補で社民党から出馬するが落選。1997年に三朝町議選で当選するが、1999年、比例中国ブロックで当選していた秋葉忠利の広島市長選出馬により繰り上げ当選となった。
しかし、2000年衆院選で落選し、2001年三朝町議選に再び当選、2013年まで町議を務めた。その間、社民党鳥取県連合代表なども務めた。
○原陽子
大学院在学中、社会民主主義政党の国際組織「社会主義インターナショナル」の青年大会などに参加。2000年、大学院科目等履修生のまま社民党公認で衆院選に神奈川14区と比例南関東ブロックの重複立候補で出馬し当選。25歳4ヶ月での当選は国会議員最年少記録であり、現役女子大生の当選という事も話題となった。ショートヘアの風貌から「政界のヒロスエ(広末涼子)」「よっきゅん」などの愛称で呼ばれた。
2001年、アメリカ同時多発テロ事件に際し、「アメリカ自身の外交政策の拙さからきた物」と批判するが、「『ざまーみろっ』って思っている国だってきっとある」との文言が右派勢力を中心に「テロを肯定している」とバッシングを受け、謝罪に追い込まれた。
2003年衆院選で落選し、2004年静岡県議補選に出馬したが、次点で落選した。その際、社民党に離党届を提出し、民主党推薦で出馬した事から、社民党から政党鞍替えを批判され、除名処分が下った。
県議選落選後は裾野市臨時職員を経て専門学校に入学・卒業し、社会福祉士資格を取得。障碍者向けの人材紹介会社に勤務している。
○熊代昭彦
厚生官僚を経て、1993年衆院選に自民党公認で当選。2001年には小泉政権で内閣府副大臣・首相補佐官を務める。2005年の郵政民営化法案採決では反対票を投じ、公認を外され、「刺客」として萩原誠司(当時は岡山市長、後に新党改革へ移籍)を送り込まれた。2005年衆院選には出馬せず、萩原の抜けた岡山市長選に出馬するが落選。2007年、国民新党から参院選に比例区で出馬するも落選、その後離党。2009年衆院選には無所属で出馬するが、落選した。
2010年、地域政党「市民の党『自由と責任』」を結党。2011年岡山市議選に出馬し、当選した。副大臣・首相補佐官経験者の市議転進は特異に映り、「議員の肩書きが欲しいだけではないか」との批判もあったが、「地域に密着した仕事に取り組むため」と反論した。2012年には、大阪維新の会の影響で結成された岡山維新の会の幹事長となった。
その後、2013年岡山市長選に出馬し落選。同選挙の投票日直前、投票を要請する無届の文書を市内の町内会長に郵送していたとして、公職選挙法違反で書類送検された。
他には、旅田卓宗(和歌山県議→和歌山市長→和歌山市議)、平賀高成(代議士→静岡県議選落選)、田中英夫(亀岡市長→代議士→京都府議)、伊藤憲一(代議士→大田区議)らがいる。地方政治を国政への腰掛とせず、むしろ国政を経験する事で地方政治の価値を見出すという事があっても良いかもしれない。
◎スカウト!
小政党での活動を経て、大政党へ移籍して活躍する議員も存在する。その中でも注目の人物をピックアップ。
○八代英太(前島英三郎)
山梨放送(YBS)アナウンサーから司会業に転身。青島幸男、中山千夏と共に「お昼のワイドショー」司会となり、これが政治家を目指すきっかけとなった。1976年に舞台から転落し、脊髄損傷の重傷を負い、下半身不随の車椅子生活となる。しかしこの事故により、かえって「車椅子の司会者」として人気を得るようになる。
1977年参院選に全国区から出馬し当選。1983年は全国区が比例区(拘束名簿式比例代表制)に変わったため、名簿順位を巡って青島や中山らと対立。青島の第二院クラブや中山の無党派市民連合(旧革新自由連合)には加わらず、独自に福祉党を結成、再選した。しかし翌年の1984年に福祉党の解党と自民党への移籍を宣言。政党への投票により得た議席が他党に移譲されるという事態は当時物議を醸し、福祉党関係者は八代の議員辞職を求めた。結局八代は自民党へ移籍し、福祉党は天坂辰雄(弁護士)を代表に1989年まで活動するも、再び議席を得る事は出来なかった。
1999年には郵政大臣として、通信傍受法(盗聴法)の制定を主導。宮崎学(作家、「新党・自由と希望」候補者)らから強く批判された。2005年衆院選では、郵政民営化反対を理由に公認を外され、引退を勧告される。それに反発し自民党を離党、無所属で出馬したが落選した。その後は、新党大地や民主党に移籍して国政選挙に出馬したが落選している。
○野末陳平
放送作家・TVタレントを経て、1971年参院選に無所属で出馬。落選するも、村上孝太郎(自民党、村上誠一郎の伯父)の死去により繰り上げ当選。1977年、新自由クラブに入党するも、1983年に離党し、税金党を結党。秋山肇(元新自由クラブ都議団幹事長)、横溝克己(早稲田大学理工学部教授、人間工学者)、星野朋市らを輩出するも、1990年に解党し、全員自民党に移籍した。この解党・移籍は上岡龍太郎(元芸人、新党護憲リベラル支持者)らから痛烈に批判された。
○海江田万里
野末陳平秘書を経て、経済評論家として独立。税金党から参院選に出馬したが落選。その後、日本新党、市民リーグ、民主党と渡り歩く。現在は民主党代表を務めている。
海江田が出馬している衆院小選挙区東京1区は激戦区としても知られており、彼も與謝野馨(自民→たちあがれ日本→民主→無所属)や又吉光雄(又吉イエス、世界経済共同体党)らと熾烈な争いを繰り広げ、落選した事もある。久米田康治(漫画家)が、「選挙で海江田に投票したのに落ちた」と著書「さよなら絶望先生」内でぼやいた事もある。
○吉田勉
サラリーマン新党参院議員で作家の八木大介(木本平八郎)の秘書出身。サラリーマン新党から国政選挙で2回、進歩党から衆院選・町田市議選各1回の落選を経て、自民党に移籍し町田市議に当選。以後4期務め、都議選に2回落選するも、現在は再び町田市議に戻っている。11回の出馬で6回落選している。
「しょむ研」サイトを運営し始めた頃、掲示板に彼自身が頻繁に自らを宣伝する書き込みを行ない、「自分はミニ政党所属歴があって4回落選した事もある、元祖泡沫候補である。このサイトで自分の特集記事を書いて、大きく宣伝しろ」と要請してきた。現在大政党である自民党に所属している議員を取り上げる事は、サイトの趣旨に著しく反すると判断したため断ったが、すると今度は「自分を取り上げない管理者はおかしい」と、恨みがましい非難書き込みを乱発してくるようになった。
彼に限らず泡沫候補出身議員は、自分の経験上、ネットを通じても相手に対して非常に尊大で高圧的な態度に出る事が多いように思われる。此処では詳しく触れないが、自画自賛的言動と強権的な態度で掲示板やブログに喧嘩を吹っ掛ける書き込みをしてくる泡沫候補出身議員を、自分は幾人か直接見掛けている。
○友部達夫
保険会社員、社会保険労務士を経て、1980年に年金相談「中高年110番」などを行う団体、日本中高年連盟を結成。83年、中高年連盟を母体に年金党を結成、酒井広(アナウンサー)や清川虹子(俳優)らと共に国政選挙に出馬するも落選。その間、オレンジ共済組合を設立、高利回りを謳う金融商品を打ち出して莫大な資金を集めた。
1995年、細川護熙の側近である初村謙一郎に6億円もの工作費を渡し、参院比例区名簿13位で出馬を果たし、当選する。この選挙で新進党は、比例区では30人擁立し、18人当選した。尚、友部は初村をはじめ17人の議員に政界工作を頼んだという。
1996年、オレンジ共済は倒産し、集められた約93億円の資金は工作費や選挙費用、リムジンやF1マシン等の購入、銀座の高級クラブの豪遊費、ホステスへのプレゼント資金などに使われ、金融商品の出資者には返されなかった。
オレンジ共済は出資法違反で家宅捜索を受け、後に友部は35人から6億6千万円を騙し取ったとして詐欺罪で逮捕。2001年、懲役10年の実刑判決が確定し、議員を失職。その間、辞職勧告決議が採択されるも、友部は辞職を拒否。殆ど国会に出席する事無く、ほぼ任期満了まで務める事となった。
友部の逮捕を受け、年金党で共に活動していた酒井は、以後TV出演を自粛するようになった。清川は記者会見で、怒りと悲しみの余り「騙された!」と叫び号泣した。
95年参院選比例区の名簿順位決定については、初村を通じて細川も強く関与していたと言われる。そして、オレンジ共済事件で被害者支援に当たっていたのが宇都宮健児(弁護士)であり、宇都宮が細川陣営からの2014年都知事選出馬辞退の要請を拒否したのは、「オレンジ共済事件加害者を、被害者側弁護士が支援する事は出来ない」という思いがあったからだとも言われる。
他には、伊東秀子(共産党→社会党→自民党推薦→国民新党)、高沢寅男(社会党→自民党推薦)、谷畑孝(共産党→社会党→自民党→日本維新の会)、井上一成(社民党→保守党→自民党)らがいる。小政党から大政党への移籍は、信念より保身を重視した行動として非難される事も多いが、落選すれば無収入という不安定な身分という事もあり、生活の糧を安定的に確保する為には、政策など捨て去ってしまって世渡りの上手さのみを最優先するような生き方にならざるを得ないのかもしれない。
◎候補者の遵法意識
「しょむ研」サイトがまだ「泡沫政治勢力研究会」(泡政研)と名乗っていた頃、某大政党に所属する地元の国政候補のサイトにリンクを張られた事がある。その候補者は法律専門職の資格保持者で、法律家の職能団体では役員も経験している。
立ち上げたばかりの小さな個人サイトが国会議員候補のサイトにリンクされたという事で、当時は非常に驚きと喜びを感じてしまった。早速御礼のメールを送ると、候補者事務所スタッフから「御宅のサイトにも候補者サイトを相互リンクして、是非候補者のサイトを大きく宣伝してほしい」と返事が来た。要求としては十分考えられる話ではあったが、泡沫候補について語るサイトで大政党の候補を肯定的に宣伝するというのは趣旨に合わないと判断し、リンクは見送った。
後日、その候補が国政選挙に出馬し、彼の名前が入った選挙ビラも自分の家のポストに入っていた。しかし見てみると、1つの問題に気付いた。証紙を貼っていないのだ。現在の公職選挙法の規定では、候補者名の入ったビラは公示日・告示日当日に選挙管理委員会から支給される証紙を貼らなければ配布出来ない。証紙を貼っていないビラの配布は、当然公選法違反である。しかも、証紙ビラは候補者本人が街頭演説をしている時に、その周辺でしか配布してはならないと規定されている。当日、自分は一日中家におり、自宅周辺で街宣が行なわれた形跡も無かった。
現在の公選法は選挙活動に関する縛りがきつく、証紙ビラも配布とその準備の為に多大な人員と労力を要する事などから、人員を集められる資金や組織を持つ候補者ばかりが有利になるという事で批判も多い。自分も個人的には、証紙ビラは廃止して各陣営が独自のビラを自由に制限無く配布出来るのが望ましいと考えている。しかし、他の候補者はこの悪法を守りながら活動しているのに、この候補者だけが違法行為に手を染めて許される訳が無い。
早速メールで「証紙を貼ってない候補者ビラが自宅にポスティングされていたが、あれは公選法違反になるのでやめましょう」と送った。すると、事務所スタッフは「ビラ撒き中の街宣は音量が小さい事もあるし、配布している間に通り過ぎてしまう事もある。お宅が単に我々の街宣を聞いてなかっただけでしょ?」とはぐらかしてきた。
そこで改めて、「街宣の有無にかかわらず、証紙を貼っていないビラを撒く事は公選法違反。堂々と法律を破っておいて、指摘されると『貴方の勘違い』と逆ギレする姿勢は、プロの法律家として、将来の国会議員(立法担当者)として如何なものか?ビラには証紙を貼る欄もしっかり印刷されているし、それを空欄のまま配布してるという事は、貴方も違法だという事を知った上でやってるのでしょう?誤魔化さず、摘発される前に違法のビラ撒きはやめて謝罪すべき」と主張。しかしそれ以降返事は無く、その日のうちに候補者サイトから自分のサイトのリンクは削除されていた。明らかに意趣返しである。そんな事をしているうち、候補者は落選してしまった。彼の選挙出馬はその1回きりだった。
因みに当該候補者とは、後に選挙とは全く無関係な場所で顔見知りとなるのだが、機会があれば、いつか彼に直接この出来事についても話してみたい。
◎ただ出るだけ?
選挙に出る目的は、当然当選を目指す事だと考えられる。又、当選の可能性が低くても、自らの政策・主張などを訴えためとも言えよう。しかし、稀に何を目的として出馬しているのか全く分からない候補者も出てくる。
2013年千葉県知事選に出馬した佐藤雄介は、出馬会見も開かず、選挙公報も出さず、政見放送にも出ず、掲示板にポスターも貼らず、公約・政策も発表せず、選挙活動も一切行なわなかった。マスコミ取材も一切拒否し、立候補受付の時の説明では居眠りをし、手続が終わったらすぐに帰ってしまい、住民やメディアの前に二度と姿を見せなかったという。当時は「一体何がしたいのか?」と非難の対象となった。他には、2013年長崎県知事選の山田正彦、2013年神戸市長選の久本信也なども、公約・政策の発表や選挙活動を余り活発に行なわなかった。特に久本は、現職後継の久元喜造(自民・民主・公明推薦)と名字の読み方が同じであり、久元の減票工作として、対立候補が擁立したのではないかとまで言われている。
無論、体調の都合等で選挙活動の継続が不可能な事もある。例えば2014年都知事選に出馬した酒向英一は、体調不良のため投票日前に選挙活動を中止し、郷里の愛知県瀬戸市で療養している。神戸市長選の久本も、選挙告示前から体調不良を訴えており、選挙活動が出来る状況ではなかったという。しかし、矢張り「選挙活動を一切せず、マスコミ取材も拒否する」という本当に「ただ出るだけ」という候補については、一体何がしたいのか、他陣営の差し金なのか、逆に他陣営から活動を妨害されてるのか、等と色々考えてしまう。如何にかならぬものだろうか…。
◎「有効投票」の是非
自分は、「『どの候補者も当選させたくない、どの候補者にも投票したくない』と思うなら、棄権・白票・無効票ではなく、最も当選の可能性が低い候補に投票し、有効票の形で批判・抗議の意思を示すべき」と以前から繰り返し主張し続けている。
自分がかつて住んでいた地域は、民主党が凄まじく強い地域だった。小選挙区なら、毎回民主党候補が5割以上の得票を取り、全国的には自民党が圧勝した選挙においても、その選挙区だけは民主党候補以外は箸にも棒にもかからないという状況だった。
ハッキリ言って、自分が投票しなくても楽々当選する民主党候補に入れる意味は全く無いと考えた。又、小選挙区制導入を先導した細川連立政権の流れを汲む民主党を支持するのは、泡沫候補マニアとしては非常に抵抗がある。一方、選挙政策においては民主党に負けず劣らず酷い自民党を支持する事は絶対にあり得なかった。共産党など、他党は資金不足・組織力不足のため出馬を見送っていた。
そこで、自分は迷わず幸福実現党の候補に投票した。無論、祭政一致主義に基づく宗教国家建設を目指す同党の政策など、全く支持してはいない。だが、実現党の候補者が当選する可能性は全く無い事を知った上で、「大政党に与しない」という意思を有効投票で示したいというただ一点で投票したのである。
しかし、この投票行動は多くの知人から批判を浴びた。大半は「民主党に投票し、圧倒的票差で勝たせる事で自民党に対抗する意思を見せるべきである」「民主・自民・幸福の3党なら迷わず棄権し、投票率を低くする事で意思表示とすべきである」「白票や『該当者無し』等と書いた無効票を投じ、無効票が有効票を上回るようにすべきだ」といった意見である。又、「実現党は、自民党や維新政党新風などと同じく右派であり、彼らに投票する事は右翼的な政策を支持した事になる。自民党と実現党の得票の合計が、左派の民主党の得票数を上回る事は避けねばならない」という主張もあった。確かにそれぞれ一理あるとも思わなくもない(但し、自民党から分裂したに過ぎない民主党を左派だと思う事は、明らかに誤りである)。
海外では、2002年フランス大統領選において、極右のフランス国民戦線党首ジャン=マリー・ル・ペンが泡沫候補という下馬評を覆し、国民運動連合のジャック・ルネ・シラクに迫る2位の得票を獲得し、決選投票に持ち込んだ事がある。この出来事は「ルペン・ショック」と呼ばれ、フランスでネオナチ政権が誕生するのではないかと世界中で注目された。有力候補とされながらルペンに抜かれ3位に終わったリオネル・ジョスパン(社会党)は政界引退を表明し、左派勢力は「ペテン師(シラク)に投票せよ、ファシスト(ルペン)ではなく」と呼びかけた。右派のシラクに投票する事は強い抵抗感があり、洗濯鋏で鼻をつまみ「積極的に支持して投票する訳ではない」という意思を示した人もいたという。尚、この選挙には極右の共和国運動ブルーノ・メグレ(元国民戦線全国代表)や、労働者の闘争、革命的共産主義者同盟、共産党、労働党など各種左派政党、緑の党や「21世紀のための市民性・行動・参加」(21世紀市民行動、CAP21)、「狩猟、釣り、自然、伝統」などの環境政党など、計16人が出馬していた。
日本の現行制度では、投票率が低くても、無効票がどれだけ多くても、選挙結果は有効票のみで決まってしまう。則ち、有効票で意思表示をしなければ自己満足に終わってしまうとも言えるのである。しかし、当選させるつもりのない候補者に投票し、誤って当選してしまったらどうするのかという懸念もある。どのような形で投票すべきかというのは、自分でもまだ明確に答えを出せていない。しかし、これからも自分の信念に基づいて、「有効投票」という形で意思表示を続けていきたいし、全ての人に「有効投票」での意思表示を行なうよう訴え続けていきたい。まあ、フランスのような決選投票制度(2回投票制)や、オーストラリアのような順位付投票制度(インスタント・ランオフ・ヴォーティング)が導入されればこうした悩みも減るのだろうが…。
後記
今回は、選挙にまつわる自身の実体験も多く盛り込んだため、エッセイ風にまとまった感がある。選挙が続く限り、しょむ系候補も何処かで誰かがいつか出馬する。今後も動向を見守り、熱心にウォッチしていきたい。