日ナレ回顧録~同期が声優デビューした~
僕はゲームを作る仕事がしたくて、大学は情報系の学部を選んだ。
それと同時に人前で目立つことが好きだったので放送部と演劇部に入っていた。
いざ就活が頭をよぎると普通にサラリーマンになるのではなく芝居で食っていく選択肢も考えるようになった。
特に僕は演劇部では声で売っており、周りからも評価されていたし、自分自身、声優になればゲームキャラの声も当てられて元々の夢もかなえられるのではないかと思っていた。
そこで僕は2010年と2011年に日ナレ大阪校に通っていた。日ナレを選んだ理由は単純で、放送部の同期の子が声優志望で日ナレに通っていたからである。
結果的に僕は声優にはなれず、今はサラリーマンをしながら市民劇団に参加しているのだが、日ナレの2011年の同期生には声優デビューした人がいた。というわけで日ナレ2年間の回顧録を書いていく。
2010~発声の目覚め~
日ナレはまず入所審査がある。とはいえ当時は小学生でも解けそうな簡単なペーパーテストがあるだけでほとんどの人がパスできたのではないかと思っている。
レッスン初日、どんな人が日ナレに通っているのだろうか、学生演劇の陳腐さを笑われないかと多少の不安があったものの、受講生のほとんどは素人で、アニメや声優好きで憧れている人が多かったように思う。
講師は東村晃幸さんという関西の俳優さんだった。今はもう講師欄に名前がない。当時ですら60歳を過ぎていたので、流石に引退されたのかもしれない。
どんなレッスンをしたかはほとんど忘れてしまったが、シェイクスピアの夏の世の夢の1シーンをやったことは覚えている。というのも演技初心者に洋劇特有の長ったらしくて読みづらいセリフをやらせるのかと驚いたからである。
発声については滅茶苦茶ダメだしされた。
「声が前に飛んでない」
「歯にあてろ」
「へそから声が出るイメージ」
等である。
このことは最初は上手く消化できなかったが、秋ごろに部活の稽古をしていた際に先輩に声についてダメだしされ、溝にある銀色のフタ(グレーチング
を持ち上げながら発声したところ、「あ、これか」と感覚がつかめたのを覚えている。
年度末にはクラスの男性で唯一オーディションの案内をいただいた。
2011~デビューするのはこういう人か~
2011年の講師は当時の大阪校代表、西園寺章雄さんだった。
そしてクラスには天才が1人いた。
それが現在も声優をされている、Mさんであった。
当時、彼女は高校3年生。最初の自己紹介を聞いただけで一発で「あ、この子デビューするわ」と思った。
それだけ実力(声やハート)がズバ抜けていた。私はもちろん、大学の演劇部員や芸大の学生と比べても抜けていたように思う。
基礎科で彼女と同じクラスだった人も何人かいて、彼女らからは「Mはすごいからね~」と異口同音に発せられていた。
私自身、講師からは「君、良い声してるね」と言われていたし、他の男性受講者からも一目置かれていた。が、そんなことはどうでもよくなるくらいMさんはズ抜けていた。
声優志望にありがちな声色だけ作っているタイプではなく演技力も達者で、「いやこんなん同じクラスにおったら心折れるで」と思ったものである。
もちろん私にも役者としてのプライドがあったので、「こいつには負けんぞ」とレッスンは真面目に受けていたし、自身の演劇部の公演に向けても演技力を磨いていた。
しかし私は腰のヘルニアが悪化し、腰が70度くらい曲がりながらも痛み止め打っててレッスンに行っていた。
が、秋ごろには休みがちになり、一般企業の就活も怪しくなっていた。結局年明けの3月に手術をし、役者は諦めて普通に就活をした。
アマチュアの役者として
就職をしてからは芝居からは離れていた。
ヘルニアの再発も怖かったので安定した事務職を選んでしまった。
そして20代の頃はおおむね仕事に精を出していたと思う。
しかし何かしらの表現活動をしたいとは思っており、2019年に新聞で見かけた京都府亀岡市の市民演劇プロジェクトに参加。今は福知山市役所が実施する演劇事業に参加している。
芝居で飯を食うことはできなかった。が、アマチュアの役者としても「見るに堪える」芝居は続けていきたいと思っている。
その上ではやはり日ナレでMさんに会った時の衝撃を忘れず謙虚に芝居と向き合いたい。
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