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デジタルコミュニケーションの時代が起こす破綻とその解決

根本的な人の営みは10,000年前からたいして変わらない。と言われます。

現代社会はテクノロジーの進化めざましく、戦後20数年後に生まれ、昭和時代のど真ん中を生きてきた私たちにとっては、今はまさに夢の21世紀が展開されています。

私が子供の頃には到底想像できなかった程、便利な世の中になりましたが、世界はすべからず表裏一体。
便利になったことで、それまでなかった課題や問題も多く生まれているように感じています。
その一つが人の営みの最も根幹を担っている、人と人とのコミュニケーションが、希薄にもほどがあると言っても過言でない位、薄っぺらく変わってしまったことです。

時間と空間に縛られない自由と束縛

実際、私は今や電話で人と話す事は1日に1回あるなしです。ましてや対面で人と会う事は、テレビ電話の普及で極端に減り、そのかわり、時間と空間に縛られることなく画面越しに数多くの人とコミニケーションを交わすことができるようになりました。

人への伝達は、FacebookのMessengerやLINEでのチャット、もしくはグループに投げ込まれるスレッドに重心が移り、短いテキストを1日に数え切れないほど送受信を繰り返します。

時間や場所に関係なく高速で多くのタスクをこなせるようになりましたが、逆に何処にいてもコミュニケーションから逃げられなくなりました。

今ではその量が圧倒的に増えすぎて未読スルーや返信忘れ、一方的に伝えたつもりになっていることによるコミニケーションの齟齬が頻繁に起こるようになってしまいました。

中でも深刻なのは、デジタルツールでのメッセージにはレスしなければならないとの暗黙のルールがいつの間にか醸成されたことです。
緩やかに、しかし確実に既読スルーは許されない風潮が強まり、それを繰り返す人は人格を否定されるほど強く非難される様になってきているのを散見します。

伝えられていないのは伝えていないと同じ。便利過ぎるのは逆に不便になったのかもと思うようになりました。
過ぎたるは及ばざるが如し。です。

道具の進化は人の進化を促す

そんな複雑怪奇で面倒な時代、人が抱えるあらゆる問題の根本とされる人間関係を潤滑にするコミュニケーションをどのように取ればいいのか?

すっかりインフラとして定着したデジタルな手法を今更手放す訳には行きません、使わなければ高速化した社会から取り残されてしまいます。
かと言って,このまま薄く早く軽いコミュニケーションを続けると人間関係は益々希薄になってしまいます。上述したような、一方的に送りつけたメッセージは受け取られて当然の風潮が強まる中、齟齬や伝達漏れがこれ以上頻発するとあちらこちらで人間関係は破綻してしまいます。

私が思うのは、人が使うツールが進化すると同時に、使う人も進化しなければバランスが取れないということです。

短いテキストは丁寧さや感情を削ぎ落として発せられます。送る方が持っている親密さ、相手を敬う姿勢、要件以外に含んだ真意はそこには反映されません。
受け取る側はというと、短い文章に書かれている情報が全てだと理解するしかないのですが、このやり取りが繰り返されると関係性に亀裂が入っても致し方ない様に感じるのです。例えば、こんなパターン。

A:「会社辞めたいんです。」

B:「どうして」

A:「他にやりたいことが出来ました」

B:「なに?どんなこと」

A:「子供の頃の夢がありまして、」

B:「そうなんだ、頑張って夢を追いかけて。」

流れのまま行くとこの当たり障りのないやりとりで縁は完全に切れてしまいます。しかし、もう少し深く考えて、向き合うべきだと思うのです。

人は本当のことを話さない

子供の頃の夢は誰しもが持っていると思いますが、社会に出てから一度志した職業を捨ててまで本気でやりたいと方向転換する人はなかなかいません。
辞めたいと言う本当の理由は、純粋に夢を追いかけたいだけではなく、今の仕事を続けていても将来が不安だとか、現在の待遇に不満があるとか、人間関係がうまくいっていない等、この手のやりとりをするパターンでは違う理由が混在していることが殆どです。

人は本当のことをストレートに話さないし、わざわざ突っ込んで訊かないもの。
実は、辞職を申し出た方も、受け取る側もそんなことは薄々感じていると思います。にも関わらず本音、本質に突っこんで話すのを避けて、表面上のやりとりで関係を終わらせてしまう残念なコミュニケーションがあまりにも多いように感じます。

このやりとり、対面で膝を突き合わせていたらまだ、「本当のところはどうなの?」と真意を問うタイミングがあるかも知れません。しかし、チャットではそれも出来ず流れてしまいがちだと思うのです。

デジタル化したコミュニケーションの最大の落とし穴がここにあります。この暗黙の了解が蔓延して誰もが本当のことに気に留めなくなった時、人間関係の積み重ねである社会は取り返しがつかない大きなエラーを表出するのではないかと危惧しています。

水面下で侵食する分断と排他

社会の成り立ちの根本を毀損しかねないコミュニケーションのデジタル化による弊害は現在、明確に認知されているわけではありません。しかし、そこはかとない違和感を感じると共に看過出来ないと思われる方も実は多くおられると思います。

ではどうするか?その問いへの答えは、やり方や方法論では見つけられません。根本解決に必要なのは常に末学ではなく本学と言われる「在り方」です。

人に対する無関心を捨てる、相手の言外の感情を慮る、想像力を働かせる、愛情を持って接するなど、非常に抽象的ですが、人としての在り方を見直すことしかないと思うのです。

人の道、万物の霊長たる人間としてあるべき姿を延々と説いている論語にこの問いへの答えの大きなヒントとなる人への対し方、向き合い方が述べられています。
結局、社会を形成し、集団・共同体を構築することで地球の覇者となる発展と進化を遂げた人間の営みにおいて発生する問題は3000年前から大して変わらず、使い道具や環境が変われども根本的には同じなのかも知れません。

子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉痩哉、人焉痩哉

『論語』 巻第一 為政第二

外見や表面を視て、言っていることではなく、なにを行なっているのかの行動を観て、その人が心が安んずるのは何処かを察すれば人の心の在り処は隠すことができない、何処にあるのかが分かると孔子は言っています。

人に向き合うにあたって最も大事なことは、表面的に目に見えているものではなく、心で観る、愛を持って察る姿勢を持つことだ。との示唆がここにあります。

人の心は何処に在るのか?

毎日無数に繰り返されるデジタルなやりとり。その表面に見えている短いテキストの裏にある本当の想いや隠されたメッセージを心で観る、声無き声を聴く意識を持ってコミュニケーションすることで、心が通う、安心の場が数多く誕生する可能性があります。

物が溢れかえり、日本では誰もが衣食住に困ることはなくなりました。しかし、自ら死を選択する人が先進国で最も多いとされるこの国。
人が生きるに値する社会とは、心理的安全性が担保される場が広がった状態だと言いかえることが出来ます。
それは、真心のこもったコミュニケーションだけが作り出すことが出来ると思うのです。

本当のことは何か?
人の心は何処にあるのか?
その問いを持ち続け、在り方を求める本学こそ、今の時代に必要だと思うのです。

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令和デモクラシーを目指す民主活動家として教育と地方活性化に取り組んでいます。
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