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キャリア視点で読む、変化社会の“学問のすすめ”

第61号(2022年6月30日)
ゆめちゃん(泰道 揚洋)さんから、バトンを受けとりました実務家キャリコン中村英泰です。

|7月を目前に梅雨明けし、観測史上最短との見出しが目に入ります。これを耳にして何を思いますか。そもそも、森羅万象の全てを“学ぶ”対象として捉えると、日常は学びに溢れているのです。

|唐突に「学び語り」を始めましたが、ここ最近“学び直し”なる言葉が巷に溢れ、リスキリングやアンラーニング、リカレントなどを、私自身も、否応なしに意識するようになっています。(2021年4月に施行された、科学技術・イノベーション基本法においても教育・人事育成の領域でリカレントの重要性が示されています

変化の時代を、越えるために“学び直し“は必携マインドなのでしょうか。

元来、「知らなぬは恥」の言葉が心に掛かる 負けず嫌いの私は、食べず嫌いは良くないと自分に言い聞かせ、「せっかくならトレンドに騙されたふりをして、溢れる波に乗ってみよう」と、例のごとく多動を始めてみました。本日はnoteを通じて、その一端を共有させて下さい。

|最初に、皆さんと共有する基となる書籍をご紹介します。齋藤孝先生が2008年に出版された「現代語訳 学問のすすめ」です。本noteのタイトルから連想された方もいらっしゃると思いますが、2021年には第61刷発行の、言わずとも知られた名著です。

本書は、冒頭「今、なぜ学ぶのか」の問から始まります。皆さんは、この問いに、何と答えますか。私は「変化社会に個として活き抜く必要性があるため」と答えました。そもそも、“学問のすすめ”を執筆した福沢諭吉(1834-1901)は慶應義塾の創設者であり、日本に学びの基礎をつくり、近代化へ導いた教育者です。私のなかで、時代は変われど”学び“に関して、こと“活きるための学び“の本質は、不変である感と感じています。

今日は、齋藤孝先生の「現代語訳 学問のすすめ」(福沢諭吉の学問のすすめを)から引用した原文へ、実務家キャリコンとして多くの方々が、次の「1」に向かうための学びに関わって来た経験をコメントに形を変え追記して参ります。これを機に、皆さんと一緒に考えて行くことが出来たら幸いです。皆さん自身の考えや意見など 自由なコメントをお待ちしています。

ここから、一緒に“学び“に対する考えを巡らせて行きましょう。

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第一|実用性のない学問は後回しにして、一生懸命にやるべきは、普通の生活に役立つ実学である。(P.011)

 これには、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けました。今と比べ 福沢諭吉が生きた1800年代は、1875年にようやく電話機が開発されたことを考えても、当然スマホもない時代で、学ぶ対象となる情報量も実践しているロールとの繋がりも限定的だったと想像します。一方、我々の活きる情報化社会は、フレキシブルに情報へのアクセスが可能になりました。その中で「今、時間を注ぐべき”実学”は何か?」を改めて考える必要があります。これは、プロティアン理論の示す、変化適応において“アダプタビリティの拡張にはアイデンティティの深長が欠かせない“という中核的な考えに直結します。特に資格の様に形式化された知識には、それ以上の価値はなく、自らに活かせるように調整して実践に向けて行くことが欠かせないと思います。(プロティアン理論に関しては法政大学 キャリアデザイン学部教授 田中研之輔先生の書籍をご覧になって下さい。

第二|国内で独立した立場を持っていない人間は、国外に向かって外国人に接するときも独立の権利を主張することができない(P.041)

 この一説をどの様に読みますか、私は「国→企業や組織、役割」「外国人→自分以外の人」「独立の権利→キャリアオーナーシップ」と置き換えて読みました。福沢諭吉の活きた時代、社会は狭く、多くの人達が一次元的な生涯を過ごしていたことが想像できます。そこで、自己の立場を開いて行くことの必要性、更には重要用をこの一文で説いたのではないでしょうか。変わって現在、グローバリズムが浸透し、世界はフラットになり、選択肢とその先にある可能性は無限に広がります。が、依然として… いや、より一層、個人は内に箱をつくり、その箱に自己を押し込め“狭い社会、一次元的な生涯“の住民になっていると感じます。いまこそ、「独立の権利=キャリアオーナーシップ」の実現に向けて踏み出すことが欠かせないのではないでしょうか。

第三|工夫や発明が個人の心に浮かんだら、これを公にして実施するには民間の有志が団結して組織を作って、その事業を盛大にする。それによって、計り知れない幸福を後世の民に残すのだ。(P.072)

 人は常に多くの思想、理想をもって日々を過ごしています。ただ、その多くは、実現されず「内に秘めた小さいな物語」のまま終えたり、時に愚痴や他者批判・攻撃というフラストレーションのはけ口に形を変えて、本来の役割を担うことなく、泡と消えてゆきます。

 考えるに、福沢諭吉の活きた当時は、社会的階層や地域の結びつきが固定的で“贖えない(あがなえない)思い”を抱えたまま生涯を終えるのも、やむを得なかったと思います。

 多方で我々が活きる現代社会では、デジタル化の伸展で、方法はありふれていて、その気さえあれば誰とでも繋がれます。いわば、人と人の間の物理的な障壁はなくなりフラットになっています。

いま、事業を盛大にする。それによって、計り知れない幸福を後世の民に残す“ため、第一に必要なのは、自己実現(心に浮かんだ思想や理想を公にする)に対して、価値共有できる仲間と繋がること。続いて、そうした仲間と、互恵性・互酬性(相手のために行動することを良いとする雰囲気)を保った環境を創ること。最後に、そうした環境で相互の関係を構築し、私個人の「あの人に、これを言ったらどう思われるだろう…」と言う心理的障壁を小さくする課題に取組むこと。 だと感じました。

 事業とは、会社を起こしたり、KPIを立てて履行したり、MVVを明確にすることに限らず、もっと実生活の段階で、他者の役に立ち、「〇〇さんのお陰です。感謝しています。」と幸福感を口にしてもらい、その人に内に何者かとして残ることだと思います。

 結論、我田引水にもなりますが、忙しい現代社会にの“学問”をすすめるには、「可処分時間を“活きるに繋ぐMyサードプレイス」が必要だと実感しました。
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福沢諭吉の名言「人は平等である」の背景を私なりに、“誰もが、私の学び成長したい気持ちと、そのために行動することを阻害することはできない。学ぶ主権は、私にある” と読み解き、明日からまた多動することを宣言して結びとします。

皆様も、”学問のすすめ“を大切に、自らをキャリアオーナーシップに向けて行きましょう。

次号は、私の軍師である斉藤保明さんにバトンをお渡しします。楽しみにしていて下さい。


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