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『東京タワー』の建設フロー、PM視点でみてヤバすぎたので解説

はじめに : Who I am

こんにちは、建設×ITのスタートアップ「シェルフィー株式会社」でプロダクトマネージャーをしているShoko(@shokosuzuki1991)です。本日noteデビューしました!👏

先日参加した『建設職人甲子園』というイベントで、東京タワー建設時のエピソードが紹介されてたのきっかけに、『東京タワーができるまで』を調べれば調べるほど、すごすぎる!ヤバすぎる!となったので、今回はそのあたりをPM的な切り口でまとめてみました。
(※なるべく事実に忠実に書いてますが、一部わかりやすくする表現を優先しているところもあります。予めご容赦ください🙏)

1.構想の大胆さがヤバい

東京タワーが完成したのは1958年です。当時は爆発的なテレビの普及が予想される中で「このまま各局独自の電波塔が増えると、東京中が電波塔だらけになって景観が悪化する」という問題を抱えていました。

そこで解決策として考え出されたのが「巨大な総合電波塔を1つ建てて、それで関東一円の電波をまかなおう」というものです。この計画はキャッチーなこともあって続々とお金が集まるわけですが、東京タワーをプロダクトとしたときの要件をCEO→PMのコミュニケーションに例えるならこんな感じでしょうか

■世界一高い鉄塔(333m)をつくる 
 ・関東一円をカバーするにはエッフェル塔(312m)を超えることになる
 ・機能:台風や地震にも耐えるものでなくてはらない
 ・デザイン:観光名所として東京のシンボルにもなるような美しさが必要

■ビジネスモデル
 ・展望台と博物館をつくり、入場料で建設費を10年でペイさせる
 ・そのためにも1年半後にリリース(公開)がマスト

■HOWに対するCEOの回答(実際の発言)
 ・「日本人は1300年も前に57メートルの五重塔つくったのだ。科学技術が発展した今なら必ずできる」by 日本電波塔社長・前田久吉

普段スタートアップでPMをしているという方々も、自社のCEOの無茶振りなんて可愛く思えるくらいの発想の大きさだと思いませんか!w

2.設計の難易度がヤバい

東京タワーの設計を担ったのは71歳のベテラン建築家で塔博士とも言われた内藤多仲でした。そんな経験豊富なベテランをもってしても、東京タワーの設計は課題だらけだったようです。

■納期早すぎ
そもそもの工事期間が1957年6月から1958年12月までのわずか1年半しかありませんでした。そのため設計にかけられる時間はかなり少なく、内藤は1万枚もの設計図を3ヶ月で書き上げたそうです。

■不確実性高すぎ
ヨーロッパと違い、日本は台風も地震も結構な頻度で起こるためあらゆる事態を想定しなくてはなりません。そこで内藤は鉄骨はぎりぎりまで細くし、全てをミリ単位で組み上げることで、関東大震災と同規模の地震や最大強風の台風が来ても問題ないと思われる耐性を確保しました。(実際に東京タワー建設に使われた鋼材の総量はエッフェル塔の半分程度)

■不可逆性高すぎ
WEBサイトと違って、建築物は一度つくったものを短縮したり、伸長したりといったことはほぼ不可能です。そのため設計の終盤には丸3日間缶詰で構造計算のチェックが行われましたが、コンピュータもないこの時代、この解析や計算も全て手計算でした。

その後実際の工事において、鉄骨と鉄骨の接合部分がどうしても合わないというトラブルが起きたのですが、そのときの原因はたった15ミリの鉄骨の誤差だったそうです。このエピソードからもいかに精微な設計だったが分かります、、!

3.実装の難易度がヤバい 

上記の写真を見てもらえば分かりますが、安全帯はもちろん、落下防止の手すりやネットもありません。ここで働いていた鳶職人は、”鳶の世界に黒崎あり”とうたわれた黒崎建設の精鋭部隊だったそうですが、とはいえ高度200メートル以上、幅30センチほどの鉄骨の上で、この「のんびり感」を出せるのは衝撃です、、

もちろん作業自体も全てが手作業と言っていいくらいアナログなわけですが、中でも一番ヤバいと思ったのが当時の鉄骨と鉄骨を接合する方法です。

1. リベットと呼ばれる鉄のピンを800度になるまで熱する
2. それを下にいる職人が鉄製の箸で挟み、上の作業場へ放り投げる
3.上で待ち構えていた職人が専用の容器でキャッチ
4. 部材の穴に差し込み、ハンマーで一気に打ち付けて接合
5. これを28万回くりかえす

このリベットを放り投げるやりとりは「死のキャッチボール」として有名になったのですが、20メートル離れたところにいる職人に放り投げることもザラにあったそうで、、

2012年に建てられたスカイツリーとは何もかもが違うわけですね。当時の職人たちの技術への自信と豊富な知識、そして何より勇気なしには進まなかったプロジェクトといえるでしょう。

4. マネジメントの難易度がヤバい

15ヶ月というSIerもびっくりの突貫納期の現場で、今でいうPM(建築では施工管理)を務めたのが31歳の竹山正明、リードエンジニア(鳶の若頭)を務めたのが25歳の桐生五郎でした。

常時400人以上の人が朝の6時から夜の6時までフル稼働し、携わった人数は述べ22万人というそれまでに類をみない大規模のプロジェクトは、この2人の若者が主体となって成し遂げられたのです。

そしてこの2人が残してる言葉がまたカッコいい。

「今度の日本電波塔は、テレビ塔としては世界一になります。命をかけなければなりません。」
(竹山正明が当時好きだった女性に宛てた手紙より)

「格好よく言えば武者震いがありましたね。世界一の仕事に、それなりの覚悟と技術者としての意地がありましたからね。」
(竹山正明へのインタビューより)

「(なぜ危険な仕事を続けられるのか?という質問に対して)愛でしょうね。仕事に対する自分の責任てのがありますよね。その中でいい仕事をした
いという気持ちは職人はみんな持っていると思うんですよ。他にお金とか名誉とかってのはあんまり考えないですね、われわれは。」
(桐生五郎へのインタビューより)

現場では命を懸けての作業も多いため、職人たちは常に気が立っており、人のマネジメントもそれはそれは大変だったそうです。

個人的には、今の自分とほぼ同世代の人たちが今から50年以上も前にこんな偉業を成し遂げていることに素直に感動しました。

5. 成果がすごい!

■安全性の高さ
非常に難易度の高い工事であったにも関わらず、死亡事故は1件だけでした。もちろん0であるべきなのですが、精鋭の鳶職人たちが集められたとはいえ、当時の安全意識の低さや安全設備のなさを加味すると信じられない数字であることも事実です。(1958年当時の建設業における年間死亡者数は1846人。現在は年間300人前後。)

■耐久性とデザイン性の高さ
東京タワーが完成して1年後に伊勢湾台風が上陸しましたが、風速52メートルの風にもびくともしなかったことに当時の人々は驚いたそうです。

東京タワーのデザインも当初はエッフェル塔のパクリだ!と叩かれたそうですが、機能美を限界まで突き詰めたゆえの魅力は2018年になった今も全く衰えていないと思いませんか?(私は近くを通るたびにスカイツリーにはないセクシーさがあるな〜と感じますw)

さいごに

プロジェクトとしての東京タワーは、規模・納期・インパクトのどの軸で考えても最高難易度であったと言えるでしょう。戦後から10年しか経っておらず、ソニーやホンダのような世界で戦える製品もまだ全くない時代に建てられたという意味でも歴史に残るプロジェクトでした。

また今回は東京タワーを取り上げましたが、普段私たちが快適なオフィスで仕事ができるのも、舗装した道路を走れるのも、安心して家で寝れるのも全ては建設業のおかげなわけです。当たり前すぎて忘れられがちですが、、

弊社はそんな建設業で働く人々がもっと現場での仕事に集中できるよう、ITの力でなんとか貢献できないかと頑張っているわけですが、東京タワー建設に従事した当時の職人たちと同じくらいのパッションを持ってものづくりをしてるよ!というエンジニア・デザイナーの方がいればぜひ一度DMください!笑



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<参考文献>※2018/7/5追記しました。出典が抜けており失礼致しましたm(_ _)m
・http://www.albatro.jp/birdyard/architecture/tokyo-tower-history/index.htm
・http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Ningen/tower/sub_tower.html
・http://www.suzujts.co.jp/business/technics.html
・http://showa.mainichi.jp/photo/2008/12/post-1b55-50.html
・https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/54378155.html
・https://minkara.carview.co.jp/userid/510863/blog/28742364/


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