✨真我の実現…それが私の精神世界の学びの辿り着く場所✨
しょーきんぐ(shoking)ことSHOKOです。
お越し頂き、ありがとうございます( ´ ▽ ` )ノ
あらゆる価値観、観念、想念、否定・判断する癖を手放す。
真我にだけ問いかけて
真我を信頼する。
自我にできる事は
望みを明確にし
それを意図するだけ。
あとは全て真我がやってくれる。
だから意図したあとは
全てを真我に任せて委ねる。
任せる以上は
どんな結果になろうが
決して否定・判断しないこと。
あらゆる価値観を手放していくと
どんな結果になってもいい…
と、思えるようになってくる。
そして、真我を信頼していれば
願望実現への執着もなくなる。
時には、自我が望んだもの以上の
素晴らしい結果がもたらされるのだから。
そんな状態になった人は
望んだ結果や望んだ以上の結果だけを
結果として捉える。
つまり
それまでの間に起こる出来事は
単なる通過点であり
全て望んだ結果に必要なものだと捉えていく。
すると、今この瞬間が
たとえ望んだものと違う現実でも
たとえ一見望ましくないものに見えても
それを否定・判断することなく
認め受け取ることができる。
それだけでなく
感謝を感じるだろう。
楽しむ事さえできるだろう。
いつも今この瞬間を
あるがままに生きていける。
だから、もう…
あらゆる価値観・観念・想念・否定・判断する習慣を手放していこう。
真我に全てを委ね、明け渡していこう。
いつも外側ではなく、内側に意識を向け、真我にだけ問いかけ続ける。
自我には意図・決定しかできない。
ならば、「どうにかしよう」としたり
何かを起こそうとするのではなく
起きてくる全てを判断することなく認め受け入れ
純粋に、あるがままに体験していこう。
考える生き方から、感じる生き方へ
対処する者から、観察する者へ
行為者から、ただ在る者へ
と、ここまでは、今までのブログでも書いてきたこと。
…そしてここからは、勇気を出して、、、初めて書いてみようと思います。
そう遠くない、いつの日か
私は意図や望みさえも
手放す時が来るのだろう。
自我を完全に手放していかなければ
真我実現はあり得ない。
だから必ず
真我実現以外の全てを
手放す時がくるのだろう。
少しずつでも構わない。
願望を、現実世界への想いを
手放していこう。
真我の探求へと
意識を注いでいこう。
真我が導いてくれることを信じて。
自我から真我へ
真我の実現を果たす。
それが私の生まれてきた理由。
それが私の辿り着く場所。
ようやく、そう思えた。。。かな。笑
やっと、こちらの本を理解し始めた気がします。
…って、本当に少しずつですし、まだまだ浅いと思いますが(^◇^;)笑
まだブログに書くなんて早いかなぁ…なんて思っていましたが、突然書きたくなりました。笑笑
なので、勇気を出して、ブログに書いてみました。笑笑
私はヨガはやらないので、言葉の意味が難しい事も多いけれど、《真我》がこの本へと導いてくれた気がしています。
本当に本当に素晴らしい教えです。
素晴らしい本です。
私にとって、このラマナ・マハルシさんの教えが、精神世界の最終章だと感じています。
…おこがましいほど、まだ理解が浅いですが🙇♀️
ある日突然、このラマナ・マハルシさんの本に出逢わせて頂きました。
私はヨガもやらないし、あまり徒党を組むタイプではないので、精神世界の学びも、いつも自分が気になった本を買って読む、という感じでした。
このラマナ・マハルシさんの本も同様に、突然の出会いでした。
でも、ラマナ・マハルシさんの教えに行き着くまでに、私を導いてくださった方がいます。(いつかブログにも書きますね^_^)
その方の教えがなければ、今の私はいないし、ラマナ・マハルシさんの教えを、こんなにもスンナリと受け入れられなかったかも知れません。
まだ、その方の教えを実践している真っ只中ですし、その方の教えをこれからも実践していきます。
って、その方のことも本でしか知らないけれど。
その方も、もうこの世の方ではないから、直接教えを受ける事ができませんが、本当に愛溢れる素晴らしい教えなのです。
その方とラマナ・マハルシさんの教えは、違うものです。
でも私には、その方の教えの先にラマナ・マハルシさんの教えが繋がる気がしたのです。
なので、その方の教えを実践しながら、少しずつラマナ・マハルシさんの教えに移行していけたらと思っています。
今日のブログの最後に、今の私が残しておきたいと強く思う、ラマナ・マハルシさんの言葉を、ご紹介させて頂きます。
〜ラマナ・マハルシさんの教えから〜
「想念とは誰のものなのか考えてみなさい。それはどこから現れたのでしょうか? それは意識である真我からに違いありません。それについて漠然と理解するだけでも、自我の消滅を助けるのです。そうすれば、無限の存在を実現することも可能になります。その境地の中には、個人は存在せず、ただ永遠の存在があるだけです。それゆえ、そこには死についての想いも嘆きもないのです」。
「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。
他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。それに対して現れる答えは「私に」だろう。そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
この外部の宇宙は、真我を実現した人にとっては、シネマ・ショーだ。それは勝手に上映されており、昼となく夜となく上映され続ける。真我を実現した人は、あたかも普通の人々が劇場でのスクリーン上のシーンや登場人物が架空のものであり、現実の生活の中に存在するものではない事を知っているように、世界の中で対象物や身体が架空の外観であることを知りながら生活し仕事をする。
神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
今日も
自分を信じて。。
宇宙を信じて。。
大丈夫!すべては
うまくいっている☆彡
今日も最後までお読みくださり、本当にありがとうございました😊
もし「ご支援・サポート」頂けましたら、心より幸せに思います。よろしくお願い申し上げます(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)ペコリ。:.゚ஐ⋆