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親の介護と自分のケアの記録 その5 2021年4月1日~16日

親に由来すると思われる生きづらさを抱え、3月からカウンセリングに通い始めました。これから介護などの必要が生じて親と向き合わなければならなくなる前に自分の問題を棚卸ししたい。そうカウンセラーに伝えた矢先、母が脳梗塞で入院することに。自分を支えるために、その経過を記録していきます。

4/1(木)

午後の家事代行仕事の前に実家へ。豆腐とひき肉のあんかけ、ひじき煮を持参。

のろのろしていたら実家滞在時間がほとんどなくなったが、母宛てに転院先の病院から書類が届いていたので、来てよかった。

持ってきた総菜類を置き、明日返すからと書類を預かり、滞在時間10分ほどで実家を出た。



4/2(金)

朝から夕方まで家事代行仕事。

仕事終わりにカフェに入り、外席から母に電話。転院の際に用意するべき消耗品類の確認と、タオルや部屋着のたぐいはすべてレンタルにしたほうがいいのでは?の相談をする。病院からもらった書類を読みつつ、必要なところはコピーを取る。

…などをやっていたら、父に伝えていた時刻よりかなり遅れて実家に到着。父が明らかに不機嫌だ。「忙しいならわざわざ来てくれなくていいよ」とか言ってくるので、どっと疲れる。やや時間にルーズな私も悪いので、父には到着時刻は正確に伝えようと思う。

実家滞在中に母から電話。母は洗濯済みの肌着を数枚持ってきてほしいという意図で「新しい肌着を何枚か持ってきて」と言っているが、父は「新しい」をなぜか頑なに「新品の」と勘違いしている。そうではないとたびたび伝えるが、父の中ではなかなか思い込みの修正ができなかったようで、混乱している。しまいには私も少し声を荒げてしまう。

何度目かの説明で、ようやく父は洗濯済みの肌着を持っていけばよいと理解したが、まだ消化不良な感じ。

言葉を額面どおりに捉えすぎてニュアンスをつかめないみたいな傾向、これまでの父にもあったのだろうか。そもそも父とのコミュニケーションがこれまで少なすぎた(多分、今これまでで一番コミュニケーションを取っている)ので、よくわからない…



4/3(土)
砂時計とかスノードームとか、ぼんやり眺めていられるものがあれば少し母の慰めになるかもと思い、ネットでオイルの液体砂時計を買った。自律神経の本に、ゆっくり動くものをぼんやり見るのがいいと書いてあって自分も欲しかったので、4個セットを注文。

子どもと一緒に昼寝をしたら、沼のような眠気に引きずり込まれ、そのまま起きられなかった。子どもを夫に任せ、眠気に任せて夕飯もとらずにひたすら眠った。疲れている。



4/4(日)
昨日注文したオイルの液体砂時計がもう到着。想像よりオイルの球の動きが速く、思ってたのとちょっと違う…と思うが、ぼんやり眺めるぶんには楽しい。色違いで4個。母には暖色系、自分用には寒色系の色を取る。残りは子どものおもちゃなどに。

ドラッグストアにて、転院時に持っていくウェットティッシュやらボディソープやらの日用消耗品を購入。



4/5(月)
介護職員初任者研修・2回目
今日の講師は、しゃべりだすと止まらないという感じの方。介護の仕事にとてもやりがいを感じている様子。どうやらここの講師は、皆さん現役で介護職員をやりつつ、ときどき講師もやるという働き方のよう。教科書の内容の合間にご自身の経験談がふんだんに入り、よい授業だった。

認知症のグループホームにて、杖に排泄物をつけて出てきてしまったご老人がいて、ほかの入所者から「汚い!」と言われた。以来、そのご老人はトイレからひとりでは出られなくなってしまう。ご老人は、おそらく「汚い!」と言われたこと自体は覚えていないが、そう言われて傷ついたという感情は残っていて、「トイレから出たら何か嫌なことが起こる。なぜかはわからないけれど」ということでトイレから出られない。(すごく雑な理解かもしれないけど、多分こういうこと)

認知症の人は、記憶は失っても感情はしっかりあるとはよくいわれるが、それをとてもわかりやすい事例で示してもらえた。自分が嫌な思いをした原因の部分は忘れてしまい、ただそれが起こった場所などと感情が結びついて残ってしまうのは、当人としてはかなり不安だろうなと思う。



転院時に持っていく日用消耗品、あれもあったほうがいいかもというものが出てきて、講座終了後、保育所帰りの子どもを連れて近所のドラッグストアへ。

買ったものすべてに母の名前をマジックで記入。なんとなくひらがなで書く。保育所で使う子どものものの名前つけと同じことをしているのが変な感じ。



4/6(火)
転院日。
妙に緊張していて、3時に目覚める。

8時半に病院に着き、もっと早く着いていた父と待合室で待つ。父はコンビニで買ったという『サザエさん』の漫画本を持っていた。のんきでいい。待合室のテレビでは、先日亡くなった橋田壽賀子のことをやっている。田中邦衛も亡くなったね、という話をぽつぽつしたり。

9時ごろ、介護タクシーの車いすに乗った母登場。父と母の対面は、3月の入院以来1カ月弱ぶり。父は照れているのか、ほとんどしゃべらず。肌寒い日だったので、持参したダウンベストを母に着せようとするが、まひで動かない右手に袖を通すのに難儀して、介護タクシーの運転手に助けてもらう。あたたかいのに動かない手に慣れない。

介護タクシーは中が広く、「介護タクシーってこんなに広いんだ!」と驚いていると、運転手が「この車両はかなり広いほうで、車によってまちまちです」と教えてくれた。

タクシーの中で、母のかばんの中に入っている健康保険証を確認することになった。小さなクリアケースから保険証を出した際、その下に「自分が死んだとき、葬式はKのやり方で執り行ってほしい」旨が書かれた小さな紙を見つける。連絡先には私の名前と電話番号。その辺もいずれは確認しておかなくちゃと思ってはいたけど、もうこういうものを書いていたのか。何も言わずに保険証をケースに戻した。

30分ほどで転院先のリハビリ病院に到着し、母は検査を受け、私と父は手続きをしたり、待たされたり。

母の検査が終わると、担当の医師、看護師、ソーシャルワーカーと家族の面談。

医師から母のまひは重度だと告げられ、「重度」という言葉に母は落ち込んでいるようだった。

・装具をつけて歩けるようにこれからリハビリを行うが、これまでのように一人ですたすたというわけにはいかない。誰かに見守られつつ、家の中や近所をゆっくり歩けるようになることを目標にする
・もともと足にかなり左右差があるので、まひのある右足の負担が左足にかかって左足にも不調が出ることを懸念している。その辺も気をつけながらリハビリを進めたい
・手に関しては、利き手を左手に換える訓練を行う。右手のリハビリも行うが、右手は今後、左手の補助的な役割になる
ということを医師から説明された。

医師の説明のあと、看護師、ソーシャルワーカーからも手短に質問や説明が続き、面談はスピーディーに終わった。全体に感じのいい病院でほっとする。

母の昼食中、父と私も1階に降り、売店兼休憩所スペースで軽く食事。面談中に話された内容を全く聞き取れなかったという父に、医師たちから言われたことを説明する。父も「重度」という言葉に少しショックを受けていた。まあショックよね…と思う。私は、前の病院のソーシャルワーカーから「このまま手が動かないかも」というのを聞いていたので、少し免疫がついていた。

母のベッドサイドで荷物を整理したりして、病院を出たときには14時を過ぎていた。病室には入れないかもと思っていたが普通に入れ、母と長時間すごせたのはよかった。父と二人でぼんやり帰りのバスを待ち、「なんか疲れたね…」、「ああ、疲れた」と言い合う。父と同志っぽくなっていることが不思議。初めてのことで不安だった転院が無事に終わり、とにかくほっとした。



4月10日(土)
午後から実家。持参用に麻婆ナス、タマネギ多めの豚のしょうが焼き、ほうれん草のおひたしを作る。ほうれん草のおひたしに入れたすりごまは、子どもがノリノリですりばちでごりごりやってくれた。子どもが「おじいちゃんにあげる!」とウズラの卵の目玉焼きを張り切って作ったので、それもついでに持っていくことに。夫と子どもが総菜を届けにあとで来てくれることになる。

病院から、実家のトイレや風呂、段差のある箇所の寸法を測ったり写真を撮ったりしてほしいと言われ、この日はそのための実家訪問。到着早々、黙々と作業。つくづく段差の多い家だと思う。

作業が終わった頃、車で夫と子どもがやってきた。夫と子どもが実家に入るのも数年ぶりで、少し緊張する。子どもは、初めこそ元気いっぱいだったが、散らかって全体的にくすんだ感じの部屋に引いたのか、次第にテンションが下がっていった。すぐに「もう帰りたい…」と言いだす。もう作業も終わっていたので、早々に退散。

帰りの車で夫から、じゅうたんを床に換えると、随分部屋の印象が明るくなるし、掃除もしやすいし、いいのでは?とアドバイスを受ける。確かに。でも、父は面倒がって、そんなことはしなくていいと言うだろう。今日子どもが早く帰りたがったことをうまく使って説得できないだろうかと考える。床にすれば部屋の印象が明るくなって、孫も喜んで訪ねてくれるよ、みたいな。



4月12日(月)
介護職員初任者研修・3回目。
この日は認知症の話がメイン。初回の課題提出日。まじめに取り組めば余裕な感じではあるが、手書きで清書しないといけなかったりして、それなりに時間はかかった。



4月13日(火)
この日の仕事がキャンセルになったので、運転免許更新や確定申告など、やらなきゃいけないことを一気に済ませる日に。母用に、子どもの写真で大きめのフォトブックを作り、送った。

予約していた本を受け取りに図書館に寄ったついでに介護関係の本棚をのぞいてみたら、棚一面介護の本だらけで圧倒された。当たり前だが、いろいろ出ている。『親の介護をする前に読む本』(東田勉)という新書を読んでみたかったが、書架に見つからず。前日の介護の講座で少し出てきた「ユマニチュード」という主に認知症の人に対して使われるケアメソッドの本が何冊かあったので、適当に1冊借りてみた。



4/15(木)
午後からの家事代行仕事の前に実家へ。ナス入り麻婆豆腐、サトイモの煮っころがしを持参。着いたらエアコン清掃の業者が来ていた。


母の部屋のベッド下に私の大学時代のノートやらが大量に置かれている。これをさっさと処分しなければ。ミニシアターのチラシをファイルに入れたものなんかが出てきて、ついぱらぱらめくりそうになるが、そんなことをしていたらいつまでも終わらない。がしがしひもでくくって古紙回収に出さなければ…。


大学時代のノートに書かれた自分の字が、すごく窮屈そうに見える。私、こんな字書いてたんだ、と驚く。

親しい友人の字はなんとなく記憶していて、古い友人の年賀状に書かれた字は学生時代のそれと変わらず、字って変わらないな、面白いなといつも思う。けれど、大学時代の私の字と今の私の字にはつながりを感じられない。そう思うのは本人だけで、友人が見れば、いやいや、これはあなたの字だよ、となるのだろうか。

とにかく、ひどく苦しそうな字。事実、大学時代は苦しかった。それで映画ばかり見ていた。


先日買った実家片づけ本(1ジャンルになりそうなほどいろいろ出ている)の著者に連絡を取り、来週実家に来てもらうことに。介護職としての経験も長い方で、要介護者が暮らしやすい/介護しやすい部屋のレイアウトのアドバイスをもらえることを期待する。カウンセリングを受け始めたことで少し弾みがついたのか、困ったら一人で悩まず人に相談しようと思えるようになってきた。



4/16(金)
午前の家事代行仕事のあと、実家へ。

途中で駅構内のカフェに入り、父から頼まれていた医療費の計算。

実家に着くと、要介護認定の結果通知が届いていた。

要介護4とのこと。3くらいになるのかなと思っていたが、4か。

書類を読んだり、病院に電話したり、母から電話がきたり…に時間を取られ、ベッド下の紙類の処分をがんがん進めようと思っていたのに、全然進まず…


―――

4月上旬に誕生日を迎え、41歳になった。友人からのお祝いメールの返信に、近況報告として母のことを書き、こうして記録をつけていることも思い切って伝えた。読んだよ、大変そうねと受けとめてもらえ、ほっとする。

夫に誕生日プレゼントに砂時計をリクエストしたら、砂時計といい音色の小さなおりんをくれた。砂時計、オイルの液体砂時計、おりん。いやしグッズ的なものが一気に増えた。砂時計は、ぼんやり見ていると落ち着く。

ここ数年、スランプのような感じが続いている。

3年半前に夫の実家に越してきたが、夫の家族と至近距離で暮らすストレスは想像以上のものだった。ストレスマックスのときに会った友人には「例えるなら、臓器移植を受けて自分のものではない臓器がなかなか体になじまないような違和感」とか言ってそのストレスを説明したことがあった。そのときよりは少し落ち着いているが、基本的には日々疎外感を感じて生きている。夫の家族がどうこうというより、基本的に家族、というか集団というものになじめないのだと思う。

3年前には、少し手伝っていた小さな会社から運よく拾ってもらえ、そこの社員のように働くことになった。このままここでずっと働けるかなと思っていたのもつかの間、経営悪化のあおりを受けて、1年であっけなく解雇。解雇というのは初めてのことだったし、役に立てているという自負もあったので、傷ついた。

初めて社員的な感じで少し働いてみて、自分が組織の一員としてうまく振る舞えないことを改めて痛感した。そこまでの精度は求めていないと言われても、自分が譲れない部分であったこともあり受け入れられなかったし、工数がどうのと作業の所要時間に口出しされるのも嫌だった。締切までに成果物を出しさえすれば、どういうやり方で進めようが何も言われない出来高制のようなものが自分には合っている。もともとわかってはいたが、決定的に突きつけられた気がした。

その後、解雇されたという傷を埋めるように、すぐに家事代行会社に登録し、家事代行と、ずっと続けてきた在宅仕事の二本柱をとりあえずのなりわいとした。家事代行は慣れない仕事で大変だったが、一人で動けるのは気楽でよかった。が、家の近くには依頼が少なく、収入面では苦戦。そしてそのままコロナ禍に突入し、収入面でさらに苦戦。さらに、今年の3月には母が倒れた。

子どもが生まれてから、子どもをかわいいと思う気持ちは揺るがないが、風吹きすさぶ荒野に薄着でさまよっているような心もとなさが同時にずっとある。

41歳の年は、新たな柔らかい風が吹くといい。兆しのようなものは感じている。


―――

上間陽子『海をあげる』を読了。近所のよく行く本屋で買ったとき、店主から「この本、よかったわよ」と言われたが、本当によかった。

まるごと一冊すばらしかったが、「ひとりで生きる」、「何も響かない」に特に胸をうたれた。

「ひとりで生きる」は、恋人に援助交際をさせてその稼ぎで生活していた和樹という男の子の話。恋人と別れ、今は新宿でホストをやっている。

インタビューで、和樹についてわかったことは多かった。和樹は父親に殴られて大きくなっていて、母親にお金をたかられていて、いまは父親にお金を送っている。
 だったら和樹は許されるのだろうか? 和樹は春菜を使い、生きてきた。春菜が仕事をしたくないと泣いているときも、和樹は春菜を優しく促し仕事に行くように仕向けてきた。
 インタビューを書き起こしたデータをみながら、書くことによって、和樹のそうした日々が肯定されていいのだろうかと私は迷っていた。だが、取材した話を書かないことも違うように私は思う。
 和樹のインタビューの記録を、データのまま出してみようと思う。これは、沖縄で殴られながら大きくなった男の子が、恋人に援助交際させながら数千万円以上稼ぎだし、それをすべて使いはたし、その恋人に振られて東京に出て、何もかもを利用しながら新宿の喧噪のなかで今日も暮らしている、そういう記録だ。
 いつか加害のことを、そのひとの受けた被害の過去とともに書く方法をみつけることができたらいいと、私はそう思っている。

この書き出しのあと、切りっぱなしのようなやりとりの記録がごろんと提示される。

「何も響かない」では、小学生のときに父親から性暴力を受けていた女性が、筆者からの勧めで精神科医とつながる。

 医師は七海のいまと過去を丹念に聞いた。七海はいま困っていることを話し、仕事のことを話し、話せないと思っていたはずの小学生の頃の日々を話し、怖いと思うと自分でも気が付かないうちにどこかへ行ってしまうことを話した。

 医師は「七海さんはPTSDです」と告げてから、何が起こってしまうと昔に戻るのかというトリガーを整理した。それから手始めに、睡眠の回復のためにできること、今後、主治医になった自分と医療ができることを説明した。

 七海がひとりで乗り越えてきた過去の重さと、目の前の患者の語りを徹底的に信頼する医師の聞き取りに私は圧倒されていた。私が二年間かけて聞き取ってきたことを、医師と七海はたった二時間で共有した。

(中略)

 とっさに出た七海ののびやかな声を聞いて、胸が詰まる。七海はひとに道案内をすることができない。どんなにささやかなことでも、自分が誰かになにかを提案すると、怒られたり否定されたりすると思っているから、目の前のひとがなにかを間違えていることに気づいたときでも、七海は静かに黙っている。

 一回の通院だけで、これまでずっとできなかった道案内ができるようになったのだから、治療をはじめたらいつか本当に恐怖を感じないで暮らせる日がくるのかもしれない。

 病院からの帰り道、私たちはふたりとも明るかった。

けれど、彼女の通院は、周囲の妨害により1回限りで終わってしまう。

著者は自分が2年かけて聞き取ったことを医師は2時間で聞き取ったと言うが、そこに至るまでの素地を2年という歳月をかけてつくってきたのは著者だ。精神科に行ってみよう、ひとに問題を開示してみようと思えた時点で、既に治癒への道は開けているのだと思う。

だからこそ、周囲の心ない言葉がけで通院が打ち切られたくだりに強いやるせなさを感じた。

この本に出てきた、青山ゆみこ『人生最後のご馳走』を読んでみたい。ホスピスで過ごすひとたちが病院にリクエストして作ってもらった料理の写真が載っていて、著者の娘さんが赤ちゃんのころによく眺めていたそう。
あと、佐野洋子『シズコさん』も出てきて、読み返したくなった。どこかにあるはず。

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