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【1/4】渋谷シティ代表の(勝手に)関東昇格記念連載 その1〜Our decade〜

2024年11月17日、13:00。日産フィールド小机で、SHIBUYA CITY FCはついに歓喜の瞬間を迎えました。東京都1部リーグから関東2部への昇格を目指して4年目のシーズン。関東社会人トーナメント大会でEDO ALL UNITEDを破り優勝。これ以上ないシナリオで、幾度となく阻まれたトーナメントの高い壁を、やっと乗り越えることができました。

仲間・OB・スポンサーの皆様にたくさんお祝いしていただき、当日の夜から2週間くらい祝勝会に次ぐ祝勝会でした。とはいえ優勝の歓喜も束の間、監督や選手たちとの契約更新の面談(何よりメンタルにくる仕事)です。スポンサー企業様を訪問しての来季契約更新の提案、上位カテゴリーで契約満了になった選手たちを獲得する新加入選手の補強。あの日から約1ヶ月半、心のスイッチを切ることなく、とにかく突っ走ってきました。

年が明けて、1月1日。ピークを迎えている選手獲得の動きもさすがに元旦は一旦連絡が落ち着くので、ふうーーーっと息を抜いたそのタイミングで思いっきり体調を崩しました。笑 外出の予定を全部キャンセルしたら逆に一人の時間がとっても長くなって、2025年の個人目標やチーム・会社のことなんかを家でのんびり考えていたんですが、せっかくだから色々文字に起こしたいなあと思い始め、パソコンを開きました。

SHIBUYA CITY FCは、草サッカーチームとして2014年に誕生し、去年がクラブ創設10周年。法人化したのは2019年なので、ちょっとだけ語れる歴史も思い出も、積み重なってきました。

初回のこの記事では、この10年を荒く振り返ってみます。荒くと言っても10年分の思い出が詰まってるのできっと長く長く書いちゃうと思いますが。笑 一旦後先考えずに書き始めてみます。

2014年、クラブの誕生

2014年、現会長の山内一樹やデザイナーの田口文也をはじめとする同い年の仲間が集まって誕生したのがチームの前身となるTOKYO CITY F.C.です。ざっくり言うとスポーツやデザインを生業にしていた、サッカー好きの意識高い若者たちですね。「第3のCITYになる」(マンチェスターシティ、NYシティに次ぐ)、今までにないサッカークラブ、既存Jクラブと一線を画した若者を熱狂させるチームを作りたい。そんな大口を叩いていました。

僕は新卒で入ったサイバーエージェントを1年で退職して観光事業で起業してすぐのタイミングでした。クラブ発足2ヶ月後くらいに元々仲の良かった同世代の彼らに誘ってもらって入団し、一緒に大口を叩き始めました。

渋谷を拠点に活動してたのに世田谷区リーグ4部に加盟したのがなぜだったのかなど、細かいところはよく覚えてないんですが、世田谷区リーグ4部を初年度で優勝して、コパセタガヤという世田谷区リーグ1〜4部までの全チームが参加する大会も優勝し、それはもう気持ちよくなっていました。

ちなみに本当に意識の高い人間たちの集まりでしたので、1万円以上する移動着用の白Yシャツをわざわざ自腹で作ってビシっと揃えて雑草のグランドに移動してたり、サイパンに遠征を行って北マリアナ諸島代表チームと試合させていただき勝利したり(なぜ?)もしました。

「自分たち、結構強いんだな」という自覚を持ち、2015年は区リーグじゃなくて都リーグに参入しよう!と、東京都4部リーグに加盟することにしました。

2015年、都リーグ4部参入と優勝

この頃の選手ただの身内と言いますか、もちろん外から選手を獲ってくる!みたいな概念は1mmもなく、コアメンバーがそれぞれサッカー好きな友達呼んでくる、みたいな感じです。それが東京都2部参入(2017-8年)くらいまで続きます。

僕は過去の試合とか本当に忘れてしまうタイプで、まじで1試合もちゃんと覚えていない(相手が9人しかいなかったとかで20点差くらいで勝った試合があった記憶だけある…)んですが、東京都4部も初年度で優勝しました。今一緒に働いてる取締役の翼はこの10年間の試合、おそらく会場とか相手とか得点者を全て記憶してます。マジで怖い。

2016年から18年、都リーグ3部に3年

寄せ集めチームでそんな簡単にポンポン上がれるわけもなく、3シーズンを都リーグ3部で過ごしました。もちろんみんな普通に社会人で、平日に練習なんてしないし、それでも勝ちたい、でもそれじゃ勝てない、みたいな葛藤が続きました。

「 PLAY new FOOTBALL, PLAY new TOKYO 」

当時、僕らが掲げていたクラブのコアバリューです。今でもTOKYOをSHIBUYAに変えてそのまんま使ってもいいと思うくらい、あの頃と言ってることが何も変わっていません。現クラブの運営会社、株式会社PLAYNEWの社名はここから来ています。

「新しくカッコ良いチームを作るために、勝つ必要があるのか」をいつも話し合っていたように思います。勝つ必要があるのかというのは、JFA(日本サッカー協会)の管轄するカテゴリーピラミッドに加わる必要があるのか、という議論です。

Jリーグ参入を目指し、またそこに加わると、新しくて面白いことができなくなるのではないか、だったら自分たちで新しいフットボールの魅せ方やあり方を追い求めて、エンターテイメント性の高いリーグを新しく生み出せばいいんじゃないか。この停滞した3シーズンに、すごく大事な話し合いが詰まっていたように思います。

いろんな取り組みをした3年でした。とにかく新しくて面白い事をやりたかった。まだどんな未来が待っているのかわからなかったけど、その欲求をカタチにするベクトルだけはみんな一致していたように思います。

田口文也がデザインした夜景の中に輝く東京タワーがズドーンとプリントされたユニフォームはどこのチームと試合しても「ユ、ユニフォームめちゃくちゃかっこいいすね….!」と言われ続け、東京タワーをモチーフにしたエンブレムも最高にクールだったんですが、東京タワー当局から申請なしに使ってはいけません、とご連絡いただき泣く泣く翌年から変更したのも良い思い出です。

初めて外部から三浦行広氏を監督招聘したり、東京都1部のベストGKの峯がなぜか加入してきたり、徐々に創業メンバーたちが出れなくなっていき、3年目についに優勝を勝ち取りました。

こんときもボロ泣きした

この年の東京カップのトーナメント表を見るとめっちゃエモいですね。この頃は数年後に東京都1部にいることすらイメージできていませんでした(そしてまさか1部に4シーズンもいるとは…)。この表見てエモい人はだいぶコアな人たちですね。笑

2019年、都2部で法人化、阿部ちゃん加入

さあ、ここから怒涛です!まず3部を上がった瞬間に、株式会社PLAYNEWを登記、本格的に渋谷からJリーグ参入を目指すと発表しました。たくさん議論した結果、やっぱり影響力を持つために、日本サッカー界の頂点を目指そうと。

まだTOKYO CITY

代表取締役社長や山内一樹、取締役は酒井翼。法人化と言っても2名体制です。僕は引き続き観光系の会社をやっていたのでボランティアボードメンバー。一樹は今も引き続き大活躍してるグループ会社の株式会社dscの取締役なので、実質の稼働は翼一人。スポンサー営業を頑張って、初年度2000万円くらいの売り上げでした。このまだ意味わからない小さい規模のクラブにスポンサーしてくれた企業さんへのご恩はまじで忘れられません…。

この頃、東京カップで東京都1部を制した南葛SCと駒沢公園で戦いました。福西さんが監督だったかな。ブラジル人FW、カベッサにフルボッコにされて、南葛はサポーターがたくさんいて、なんかほんとのプロチームみたいだな、何一つクラブとして勝てる部分がないなって思ったのをすごく覚えています。選手としては僕はここで引退。

そして、阿部翔平さんが初のプロ契約選手としてヴァンフォーレ甲府から加入しました。サッカー界では非常に大きなニュースになったと思います。J2から8部への移籍ですから。僕らも「阿部ちゃん、どういうことですか?なんで来てくれたんですか?」と、意味わからないことが多かった。笑 韓国遠征が初めましてでしたね。随分年上の阿部ちゃんが本当に謙虚で柔らかくて、すごく嬉しかったのを今でも覚えています。

阿部ちゃんの加入もあってこの頃には選手権で優勝したことあります(シュンタ)!とか、高校大学で何回も日本一獲ってます(ノム)!とか、関東リーグでやってました(ユウタ)!とか、東京都1部のベスト11です(ケイタ)!とか、そんな選手がどんどん集まってきました。もちろんお金は阿部ちゃん以外誰にも払ってないけど、それでもみんなチームが好きですごく前向きに昇格のために戦ってくれていました。

都リーグ2部の初年度は、そんな彼らの活躍もあって健闘。惜しくも得失点差で東京23のセカンドチームに首位を譲ることになり、残留。法人化!初プロ選手誕生!初年度で優勝!とスムーズにいくことはできませんでした。

実は大学時代からの仲間であるビデオグラファー、松永エイゾーが、この1年のドキュメンタリー映像を撮影、公開しています。いまだにこのドキュメンタリーを超えるサッカーの映像作品を僕は知りませんし、今こそこれやるべきだろおおおおおって心の奥底から思ってます。笑

こっちを見始めちゃうとみんな僕のnoteを読んでくれなくなるので貼るか迷いましたが、まだみんなどうせ仕事始めまで少し時間あるだろうからよしとします。

翌年の2020年シーズンに、東京都2部を優勝、1部昇格を決めました。今年引退したチームのレジェンドその2、宮崎タイスケはこの優勝の年に加入しました。でも彼が加入したから優勝したわけではありません。加入しリーグ戦初戦で大怪我してずっと治療、リハビリしてたからです。笑 翌年からたくさん活躍してくれました☺️ありがとうタイスケ。

そしてようやく!この2020年11月、1部への昇格が決定したタイミングで、翌年から「東京」ではなく「渋谷」を名乗ることを発表しました。

名称変更の特設LPをつくって、コピーライターやデザイナーなどクリエイティブな仲間にたくさん集まってもらって、それはもう大々的に本気でリリースしました。(今思うと何人の人が興味持って見てくれてたのか…笑)

僕らはずっと渋谷を拠点に活動してきました。遊ぶのも働くのも渋谷。でも渋谷と名乗ることによるリスク(練習場やスタジアム問題)もあるし、それでも言い切ることの重要性もある。そんな議論を何年も繰り返してきました。

ホームタウン活動も、現取締役の畑間を中心に渋谷にこだわって当時すでに年間で200回以上も行っていました。子どもたち向けのイベントや行政とコラボした企画、サッカーに問わず地域貢献の文脈で街のために動き回っていました。

渋谷への名称変更の最後の後押しは、そんな渋谷の人たちから「東京」じゃなくて「渋谷」って言い切ってよ!渋谷のチームじゃん!と言っていただいたことでした。

今でもこの街のパワーや魅力に、クラブはおんぶに抱っこの状態です。まだ何者でもないのに、渋谷の名前を背負わせてもらってるからこそ、強く逞しく見えているだけです。でもどこかできっと、逆にクラブが渋谷の街の価値を高める存在となる時が来ると信じています。そうやって渋谷の街と我がチームが、お互い高め合う存在になっていきたいとも思っています。

当時の想いはこれに全部詰まってますね。交差点を走っているのは現アストラ倶楽部監督の小松ケイタ。

さ、ここから長い長い、1部での戦いが始まります…。

2021年 都1部初年度のクラブ大変革期

SHIBUYA CITY FCとして生まれ変わったチームの都リーグ1部初年度は、思い通りにはいきませんでした。18チームのリーグ戦で、上位3チームが関東他県の上位チームが参加する16チームのトーナメント戦へ。

SHIBUYA CITY FCは7位で終了、夏前にはすでに3位以内の可能性がなくなり、消化試合で優勝したエリース東京FCに大敗。絶望的なシーズンでした。僕は自分の会社を仲間に任せ、クラブの取締役としてジョインした初年度でした。

このシーズンでの出来事は詳しく書けない事情もあり、濁す形になってしまい大変恐縮なんですが(こんな長い文章、数十名くらいしかちゃんと読んでない前提なので謝る気もないんですが…笑)、まさに選手とスタッフ、ボードメンバー同士、いろんなところで亀裂が入って組織が崩壊した1年でした。

シーズン途中に中心選手が他チームに移籍したり、この体制で行くならもう来年はやらないという選手が多く現れたり、非常に難しい時期でした。

今でもあのやり方が正しかったのかわからないし、傷付ける人が出てしまった結論に100%納得しているかでいうと全くそうではないのですが、クラブが前に進むために、僕が山内に代わり代表取締役CEOになることを志願し、結果的にそれが受理されました。

翌年2022年から会長の山内、代表の僕、取締役に畑間と酒井という4名の現役員体制でクラブは再始動していきます。

2022年、戸田和幸氏が指導者として加入

代表になって最初の大仕事は監督探し。OBである後輩の三宅の後輩で、アントラーズで活躍された金古聖司さんと当時よくお話しさせていただいてました。監督を探していることを聖司さんに伝えると「戸田さん、どう?」と紹介していただくことに。

代表初年度、ここからクラブの名前も自分の名前も大きく売っていかないといけない、また東京都1部から関東2部という昇格が最も困難なカテゴリーなんだから大きく仕掛けるしかないと、戸田さんに直接お会いさせていただき契約を結ぶことができました。

夏まで練習試合、公式戦、無敗。こんなにもたった一人の人間のエネルギーで全てが変わることがあるのかと、信じられない毎日でした。

阿部ちゃんだけでなくファジアーノ岡山から獲得した現執行役員の田中裕介や、かつてヴェルディで10番を背負った菊岡拓朗さん、国内外で素晴らしいキャリアを長年に渡って築いた柴村直弥さんなど、多くの元Jリーガーも口を揃えて戸田さんの指導力に驚愕していました。

青学サッカー部からの新卒第一号として植松リョウが加入したものこの年絵でした。若手とベテランの融合により、リーグ戦で3位に食い込み、ついに関東昇格をかけたトーナメントへ初出場を果たしました。

1回戦を15人目まで蹴る長い長いPK戦で勝ち抜き、2試合目に1-2で敗戦。関東昇格の目標はあっけなく散ることとなりました。

トーナメント出場が決まった10月から初戦の12月までの2ヶ月間、僕と戸田さんの関係が全くうまくいっていませんでした。最終的には山内に現場を任せ僕は完全に外から見守ることに。今思うと、クラブの代表としての覚悟や、勝利に全てを賭けられていなかった緩さ・ぬるさが戸田さんには全て見抜かれていたように思います。

11月の中頃の言い合いをしたLINEのやり取りを最後に、御礼もせず別れ、2年が経ちました。先日、関東2部への昇格が決まり、歓喜の日々が続く中でも、ずっと頭の隅で引っかかっていた戸田さんの存在が消えることはなく、勇気を振り絞って直接会って御礼と謝罪がしたいですと連絡したら、1秒で既読がついて2秒で電話がかかってきました。笑 後日お昼に渋谷のカフェで2時間40分、たくさん話しました。戸田さんもこの2年いろんなことを経験され、でも全く変わらずとっても熱く、とっても優しかったです。

当時、9月ごろにはSC相模原へ監督としていかれることが決まっていたので、昇格を逃し迎えた年末の最初の仕事は監督探しです。コロナの影響で本来11月開催のトーナメントがこの年は12月開催だったこともあり、年末までの選手との契約や監督探しでスケジュールは多忙を極めました。悲しんでいる暇など一切なく、悔しさと焦りといろんな感情がぐちゃぐちゃになり、ほぼ記憶もございません。

シーズン途中にNEWERAとの世界初のサプライヤー契約を勝ち取ってきた、22年は選手兼フロント社員だった田中裕介さんには「もうサッカー選手をやっているの勿体無いから、引退して来年からはフロントで一緒に戦ってください」と早めに伝えてありました。本人も「そうだね!そうした方がいいね!」と。

年末の末。監督がなかなか決まらず焦る日々の中で「マス君、可能性ありそうだから、代理人と4人で会おう」と裕介さんから連絡がありました。渋谷のカフェで初めてお会いした、まだ気を遣って物静かだった増嶋竜也さんから、指導者としてのし上がっていくという強い情熱を心の奥底に感じました。

2023年 都リーグ制覇

SHIBUYA CITY FC×NEWERA元年、本当に昇格したい一心で、都リーグ1部3年目のシーズンがスタートします。この年は今も活躍する土田や山出、鈴木のようなJFL所属の選手、また大卒選手含め非常に若い戦力が加わったシーズンでした。結果論ではありますが、蓋を開けてみたらとんでもなく強度の高いマスさんのトレーニングが、若手主体のチームに非常にマッチしたシーズンでした。

とはいえリーグ戦初戦、ついに同カテゴリーに追いつかれた本田圭佑さんがオーナーを務めるEDO ALL UNITEDと激突します。開始15分くらいで「いけるな」と感じました。

案の定、前半のうちにJFLから加入した山出の超強烈なロングシュート先制弾で数百人のオーディエンスを完全に味方につけました。しかし、終わってみれば山出が退場しPKで同点、試合を完全に支配していた土田の2人目の退場で9人となり、大逆転負け。エンタメとして完全に成立した試合でしたが、初戦を落とした悔しさ、EDOに敗れたもどかしさは大きな精神的ダメージでした。デザイナーの田口に「負けたのは代表のお前がぬるいからだ」と散々罵倒されました。当時はよく喧嘩していました。

EDO戦後、チームは盛り返し、順調に勝ち星を重ねていましたが、夏に東京蹴球団というチームに、一敗しました(なんとそれ以外はリーグ戦全て勝利)。金髪ロン毛のヤンキーみたいな男に、スーパーゴールを2点浴び、敗戦。目が醒めるようなゴールでした。試合が終わるとYouTubeでのライブ配信を見ていた知り合いや友達の数名から「あのヤンキー、すごかっただろ、友達だよ」「2点決めたやつ、紹介しようか?」と立て続けに連絡が来ていました。

うちだけでなく、多くのチームが、彼のゴールによって打ち負かされていることを知りました。すぐに友達に紹介してもらい会うことに。8月末まで移籍の登録が可能なので、残り2週間で移籍してもらえば、出場の決まりそうなトーナメントにも彼を出場させられる。そう思い、強引ですが会ってその場ですぐにうちに来てほしいと打診をしました(本当にお恥ずかしいのですがオファーの筋みたいなものを全く理解しておらず、蹴球団さんには大変失礼をしました)。彼が今年のトーナメントでゴールを量産し、渋谷を関東昇格へと導いた、政森宗治でした。

9月末には優勝が決まりました。その後のトーナメントは、前年に続き2度目だったので、色々と勝手がわかっていました。移動、前泊、飯の手配、相手のスカウティング、選手のメンテナンス、スタッフの配置、役割。2試合を土日で連続で行い、一週あいてまた土日。16チームのトーナメントで3回勝って決勝に進んだ2チームが昇格なので、2回目の土日の土曜に勝ったら昇格決定、決勝は特に意味なし、となるわけです。

1回戦、2回戦をどちらも劇的な終了間際のゴール(2回戦は都1部を3位でトーナメントに上がってきたEDOさんとの再対決)で勝利し、ついに「勝てば昇格」の3回戦。

まだ誕生して間もない、僕の前職の大一期インターン生の後輩が運営するチーム、COEDO KAWAGOEさんが相手でした。思い出すとまた泣けちゃいますね。コーナーキックから元Jリーガーの三島選手にヘディングで2点。1-2で敗れ、また目標を掴み取ることができませんでした。

すでにサッカーの話しばっかりになっちゃってますが、この2シーズンでスポンサーさんの数が一気に200社以上に膨れ上がり、最終戦はとんでもない数の応援者やスポンサーさんが現地で応援してくれました。彼らを歓喜の渦に巻き込んで、絶対このクラブから離れられないようにしてやる!という気持ちでした。しかし儚く散り、膝から崩れ落ちて泣きました。

負けてすごくきつかったのは、契約満了を言い渡すことです。例年のことですが、慣れることはありません。上がるために切らないといけない。お金をいただいてサッカーをしているので、もうとっくに遊びのクラブではないのです。しんどさを乗り越えて、また昇格を目指し這い上がるしかないのです。

2024年 歓喜の瞬間

もう今年のことは書かなくてもいいですかね。笑 あまりに感謝を伝えなきゃいけない人たちが多すぎるのと、いちいち、どこもかしこも、ドラマだらけな一年でした。

渡邉千真さんの加入が非常に大きく取り上げられましたが、今年加入した選手たちは素晴らしいキャリアと人間性を持ち合わせた選手ばかりで、完全に補強が功を奏しました。

増嶋監督の続投がまず最も大きな昇格の決め手とも言えました。文字通りあと一歩のところまで来ているのに、監督が変わってチームが変わってしまったら、あと一歩だったという実績に信憑性がなくなり、再現性が一気に下がってしまうからです。

もちろん増嶋体制が2年目だったとしても全てがうまくいっていたわけではなく、シーズン通して問題はたくさんありましたし、起こしてしまいました。選手会を発足して組織作りにフォーカスしたりとか、選手の働き先での負担を最大限軽減させていただいたりとか(就労先のスポンサー企業さんには本当に感謝しかありません…)、いろんな細かな改善を試みても、やっぱり問題は起こります。それでも選手たちは何があっても選手たち同士でまとまり、話し合い、乗り越え、昇格を掴み取ってくれました。

リーグ戦はライバルのEDOさんに首位を譲ったものの、しっかりトーナメント決勝で借りを返すベストシナリオ。チームが崩壊した2020年からずっとその明るさで多くの笑顔を作り続けてきた河西シュウの決勝でのゴール、そして引退発表。ベンチ外の選手たちもクラブの勝利を願い続け、役員からインターン、アルバイトまでが同じ熱量で戦ってきました。去年、負けて真っ先に電話で謝罪した時に「来年、もう一回頑張ろう」と言ってくれたメインスポンサー、オーチューの平野さんは、今年は歓喜の瞬間、横で泣いていました。

これに全て詰まっているので、ぜひこれは見てください!

昇格して初めて知った感情、気付いたこと、いろんなメモを残しているので、それは第三弾くらいのnoteで書こうと思います。

とにかく大きな山を越えました。でもまだ何も始まっていません。10年かかって、やっとここまできただけです。期待していてください。

先月12月の中頃に、会長の山内と、2人で飲みに行きました。初めてのサシ飲みでした。いろんなことがあった過去10年を振り返りながら、あんときこう思ってたんだよ、おれはこうだったよ、なんて話しを何時間も繰り返してました。普段お酒を飲まない僕がめちゃくちゃお酒の大好きな山内とおんなじくらい酔っ払って二人でフラフラになりながら帰ったので、相当飲んでたんだと思います。最高の祝勝会でした。

彼のnoteからかなり色々抜粋してるので、もっと深く知りたいマニアの方はぜひこちらをどうぞ。




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小泉 翔  SHIBUYA CITY FCの中の人
妻と選手たちに、焼肉を奢らせてください!