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メグルメグ:私がJAISTへ社会人学生として進学した理由

人生は一度落胆したとしても、自分の道を諦めないで進んでいればチャンスは必ず訪れるモノだと私は信じている。
私は現在、東京で会社員としてエンジニアをしながら北陸先端科学技術大学院大学(略称:北陸先端大,JAIST)の博士前期課程東京サテライトキャンパス社会人コースに通いメディアアートの研究と勉学に日々励んでいる。
北陸先端大に進む事になり、石川という地への深い縁に私は巡り巡った運命を感じている。
なぜ、石川に運命を感じるのか?
それは、過去に共同でアプリを開発していたチームリーダーの友人が背骨のがんで金沢大学付属病院で入院していたために何度かお見舞いで金沢に行き友人と最後会えた場所であったからです。
その友人は私の事を認めてくれた数少ない方で、心から信頼できる人だったので本当に大切な存在でした。

2012-2014 筑波大学時代

2012年 当時、感情の可視化という面白い分野をやっている筑波大学の先生の研究室に修士の学生として入学したかったが、その先生が助教で研究室のキャパもあり研究室の学生を取れない状態であった。せめて先生とは関わりたいとの事で勤務しながらでも両立が可能な科目等履修生をその先生より案内された。そして筑波大学に科目等履修生として入学し研究の情報交換をしたのだ。当時、科目等履修生として在籍して居た私は非正規生という事や社会人をしながら学んでいる事、そして奇抜なアイディアを発信しているのもあり周囲の学生や先生からも浮いて居た存在だった。
2014年 大学の中で浮きまくっていても、サイエンスカフェなどいろんな学生が集まる場所に積極的に出て行ったお陰で科目等履修生でも大学内に友人や仲間が増えた。その中、大学のアプリ開発というプロジェクトにたまたま関わる事ができ、その中で後に自分の運命を左右するアプリ開発のチームリーダーとも出会えたのだ。当時周囲から相当浮きまくっていた私を見てチームリーダーは
「突拍子も無いアイディアを言える人間はチームにとって必要なんだよ。イノベーションってどうやったら起ると思う?同じような考えの人間が集まってもダメなんだ。君は奇想天外なアイディアを思いついて言ってくれるけど、時にその発言が周囲を混乱させるだろう?周囲は飛び抜けたアイディアを思いつかないから君に対して理解がなくて邪魔者扱いする。でも、私はリーダーとして君を守るし大切にする。何故なら、チームには起爆剤が必要なんだ。奇想天外な事を言う奴がいるから新しいモノを生み出せるんだよ。君はこのチームの起爆剤だ。」
当初は8人グループの中でも浮いていて、正直他の人の足を引っ張っていると思ったし、自分が開発に貢献しているかわからなかった。しかし、リーダーは浮いている私を労ってくれて友人としてもとても尊敬してくれ分かり合える仲だった。周囲から浮きまくっていてもリーダーであった友人は周囲にこう伝えてくれたのだ。
「この日本が変化するには、奇抜な人を邪魔者にするのではなく、生かすことを考えなきゃいけない。だから、オレはその例を作る。」
その言葉と友人の姿勢に感動し、その言葉に救われた。周囲に説得してくれる様子を見て惹かれる事もあったが、友人は既に結婚してお子様も居たので恋愛感情は持つ事ができなかった。
今までこんなに自分を認めてくれる人に出会う事がなく、いつも否定や拒絶ばかりを受けおり私は正直自分に自信が持てなかった。その反面、友人は自分の良いところを生かしてくれる姿勢が本当に嬉しく、少し自信が付いたのと何より認めてくれた事が心の救いになった。この方とこのチームに貢献して素晴らしいアイディアを形にして世に出したいと思った。心から信頼できるリーダーであり友人であった。無事にWebやアプリのサービスがリリースし私でも力になれる事があるのだと大きな自信と勇気が持てた。
しかしその矢先、友人は背骨のがんに侵されてしまい、大学を休学した。

  友人とプロジェクトチームと一緒に開発した「iTsukuba」

2015年:研究員と一度目の修士学生時代

2015年、当時、筑波大学での頑張りが評価され私はとある国立大学のプロジェクト研究員に採用された。同時に大学院修士の学生として日々を過ごしていた。研究員と修士号取得は私を雇って下さった上司からの命令でもあった。研究室の上司である教授はプロジェクト資金調達のために常に研究室に居なかった。23−24歳の院生よりも5つ年上で他の研究員と比べて学士でこの職に着いている事から当時私は研究室では浮きまくっていた。それでも、筑波大時代のアプリ開発のリーダーの友人が背骨のがんで闘病していることに比べれば、裁量性で大学に残って作業するのはマシと思い、毎日帰宅が夜中の1、2時になっても明るく過ごしていたのだ。
しかし、後に研究員と修士の学生を兼任するのはよろしくないとの事で大学の上層部に密告されたのだ。所謂潰し合いである。上司である教授は自分が研究員をしながら修士号取得を促したにも関わらずミスを棚の上に置き、最終的には私は研究室で居場所が無くなってしまったのだ。 
当時、背骨のがんになった友人は背骨のがんのスペシャリストが居る金沢大付属病院に入院しがんの手術ができるチャンスを待っていた。手術までの間、抗がん剤の治療をしがんを縮小しようと努力していた。その時に私は研究業務と大学院の両立で多忙な最中、無けなしの時間を割いて金沢へ行き友人のベットでにだただ無事を祈っていたのを覚えている。
「革命的な事をするには、君みたいに変わった奴がいなきゃダメなんだよ。」
研究室での居場所を見失っていた私にはその言葉が大きな心の支えであった。
やっと抗がん剤の眠りから覚めた友人は重い腰をあげて一緒に院内を散歩してくれた。
「この病気を直して、手術を成功させて、オレは開発現場に残るんだ。」
そう強く発言はするものの、覇気が無くとても弱っていたのを感じた。
どうしても電車やバスの時間があり、病室を後にしなければならない友人は明るくは見送ってくれたが、まともに歩けないのだ。それでも私を見送ってくれた。入院棟からエレベーターに乗ろうとしたが、ふと友人の気配がして後ろを振り向くと身障者用トイレの前でうずくまる友人が目に映った。一人で用を足せない友人を後にして、涙が流れた。介助したくてもできなかった自分に後悔さえあった。
友人が歩けなくなる弱々しい姿が今でも目に思い浮かぶ。
その後、金沢で有名な長者町や旧市街を周り、気品ある綺麗な和菓子を頂く機会があったが、友人の弱い姿を思うと全く味がしなかった。どんなに歴史があり美しい街・金沢であっても私にとってはがんの友人が抗がん剤で弱ってしまった場所であった。
本当に手術が無事に執刀されるのか希望は見えなかった。
やがて、友人は背骨から肺にがんが転移し、手術は残念ながら行われる事はなかった。

2016年 転職とBurning Manと運命の時

2016年、私はその大学を後にし再びチャンスを得るために東京へ転職して戻り、友人は愛知の実家へと静養するために戻った。私はいったん就職したが、会社の都合で辞めざるえなってしまった。その後、アメリカで行われるBurning Manの日本のアートチームに加わる事と東京工業大学へ科目履修生として入学する事になった。
その年の8月、Burning Manが行われる直前にがんの友人はSNSで元気な姿でギターを引く姿をポストしていた。私はその姿を見て、アメリカから帰国したら友人に会いに行こうと思っていた。丁度Burning Manが8/23-9/4までなのでまだ元気なら大丈夫だと思っていた。
Burning Manはアメリカ・ネバダ州にあるレノという街から車で3時間かかるブラック・ロック・砂漠で行われる巨大なアート・レイブのコミュニティの集まりである。砂漠の中に突如7万人が集まる街が出現するので水道も電波などのインフラが一切無く、金銭をやり取りするのは一切禁止。その代わりギフテッドというお互い与え合う文化で成り立って居る。そして、参加者たちは食料など生きるのに必要なモノは自己責任で全て自分で持参しなければならない。砂漠なので昼夜の気温差が激しい環境である。その環境はまるで人類が地球外の惑星へ移住した時の想定される生活であろう。この過酷な環境下では周囲の人々と”口頭や文字でのダイレクトなコミュニケーション”を取り食料や水、周囲の情報を交換しなければ生きて行けないのだ。

その中でアートを表現する事、厳しい環境下の中でも生きる事、Burning Manという文化を正しい理解で記事として文章化するという活動をした。

     Burning Manでのアート展示 「Da Vinci propeller」

そして、Burning Manが終わり9月5日アメリカの中で電波がキャッチできる場所に帰ってきた時に、がんになった友人が亡くなった知らせが届いた。友人は8月27日に亡くなった。インフラが一切無いBurning Manの過酷な砂漠の環境下でしばらく過ごして居たので電波も何もキャッチでい状態が続いたので死後一週間してからの知らせだった。
私は心にポッカリ穴が空き、号泣し、声が枯れるまで泣き叫んだ。人生に「また」なんて無いんだという事を友人の死をもって知った私は大きく後悔した。
私はBuring Manへ行くべきだったのか大きな後悔に襲われた。友人の死に目に会えなかった事が大きく心に影を落としたのだ。
そして、金沢は実質私とがんの友人が会えた最後の場所になったのだ。

もう、二度とこんな思いをしなくない。友人と別れての場所となった金沢には二度と行かないし、Burning Manへ行くのもわからないとさえ思えた。友人の死は自分の家族が死ぬよりも心に大きなショックを与えたのだ。
自分の事を認め、チームの仲間に入れて一緒に開発をしてくれた友人の言葉に何度も救われた。変で浮いていてもあなたはここに居ても良いと言ってくれた友人の言葉に安心感を感じていた。

2017-2018年 東京大学 制作展時代

その後、2017年にたまたま機会があり、石川県にあるとある大学の研究員としての試験に挑んだ事もあったが学位が無い事もあり最後でダメになった。友人が苦しんだ地でもある石川であったし、だからその時までもう二度と石川県へ行くことは無いと思っていたし自分も希望はしなかった。

そして、同じ年にまた別な国立大で再チャレンジしようとし学生としての研究生から始めたが、そこでは研究室の先生とウマが合わず研究室に行けなくなってしまった。それでも研究や作品を作りたい願望や、たまたま共同制作者が居た兼ね合いで東京大学の制作展という講義を外部且つ潜りで受講した。この講義は制作展という展示会を学生の力だけで運営と作品展示をする大学の講義である。この制作展の中では、メディアアートとして胎児に戻る体験ができるVRやロボットとの恋愛や未来の生活描いた作品を生み出した。東大制作展のお陰で私は外部であるが自分の居場所を見い出す事ができたし、2018年の前期の制作展の時期に転職活動をしていたが、制作展の作品と活動のお陰で会社からスカウトがあり無事に転職活動を終え就職する事ができた。その年の後期の制作展は会社のロボットを使用するという事でありがたいことに特別に業務として認めて頂き、私を雇って下さった会社には本当に心から感謝しかない。

  東京大学 制作展で人間とロボットの恋愛を描いた「Robot Love」

2018-2019年 巡ってきた運命

しかし、運命というモノは巡り巡るモノである。
2018年、とある東京のガジェット系の集まりの中で偶々プレゼンをする機会があった。そこで今まで制作したメディアアートとBurning Manの話をその集まりの中ですることになったのだ。わずか10分程度のプレゼンであったが、とある石川県内の大学の先生もその席にいらしたので、勢い余って「先生の所で博士の学生やって学位取得したいです!」と伝えた。その先生は最初はOKと返答したものの、その集まりが終わった後に直ぐ
「僕の所でも良いけれど、正直僕のところはガジェットが中心にあんるからメディアアートやインタラクションを思いっきりやりたいならオススメの先生が居るから君のポートフォリオや動画を送って欲しい」と来たのだ。

確かに、この先生は個人的に深センのガジェットやMaker Faireなどのイベントでお会いして親みやすく一緒に研究をしたいと思っているが、分野は違うかもしれない。先生が言うオススメの先生がいらっしゃるならそれにかけてみようと思い切ってポートフォリオを送ったのが2018年の11月でした。その後、2-3日で「こちらの先生がオススメですよ」と言う事で紹介があったのが、一人は私と同じような赤ちゃん系のメディアアートをやってらっしゃる関東圏内の先生と、もう一人がCGの研究で有名な北陸先端大の先生であった。大学院へ行き学位取得を諦めていた自分が居たので、こんな早く先生方を紹介されて嬉しさがあった反面、疑いもあった。
2回連続で研究室の先生とウマが合わなかったので大学院生に向いて居るのかという自分への迷いもあった。しかも、石川県に由来する先生たちだったので、個人的に石川県はがんの友人と会った最後の場所でもあったので気乗りしないのもあった。
 しかし、2019年の1月上旬に学位取得に悩んで居る時期にとある研究員の方にお会いし学位の話を聞く機会を得た時に、
「君は日本語や文章能力がきちんとしているのか?博士でやっとその能力が身に付くと思うけれど、修士で最低限の文章構成や物事を論理立てて話す事ができる。」と聞いた時に、自分の考えが180度変化したのだ。
諦めるのではなく、逃げたくも無い。怖がるのではなく、未来を変えたい。
がんの友人が弱った場所が金沢だったかもしれないけれど、自分で可能性のある場所に変化させれば良い。だから、今一歩進むのが良い。

やっと自分の気持ちに正直になれた私は思い切って北陸先端大の先生にアポイントを取り、まず Web会議ツールで面談をしたのだ。

その時に、まず自分が生命を題材としたメディアアートを制作し続けたい事、そして研究や論文に携わりたい情熱を伝えた。それと同時に、過去二回も大学の研究室とウマが合わなかった事や、とある国のプロジェクトに携わっていた事も伝えた。
先生も聞いていて苦しかったと思う。それでも、話だけでも聞いてくれた事は本当に感謝している。面談の時に先生は
「私は、学生が自分のしたい事を伸ばしていく事が大切だと思う。過去に予算取りで国や企業のプロジェクトにも関わったが、書類や会議に終われるだけで学生を蔑ろにしかけた事があった。大学や研究室にとって一番大切なのは一緒に時を過ごす学生が自分たちの納得行く様に過ごす事です。ここを巣立つ学生たちこそ予算よりも大切だと思うからです。」
その言葉を聞いて、私はこの先生について行こうと覚悟を持てた。
もちろん予算取りやプロジェクトに関わる事は大切な事であるし、研究費取得は大学の研究活動に置いて生命線である。

それ以上に、大学にとって大学院生というのは研究を進んで行ってくれる戦力であるし、学生を大切にするからこその大学院だと思った。院生を大切にする心遣いこそ大学院で一番大切であると伝えてくれた先生の言葉に心から感銘した。

更に北陸先端大の東京サテライト校が品川にあるというのだ。東京に北陸先端大のサテライトキャンパスが有るのを初めて知ったが、丁度自分の勤務先からも徒歩圏内で行ける事や仕事を辞めなくても進学ができる事がわかりチャンスだと思えた。
本当は博士に直ぐにでも入学したかったが、飛び級で博士進学には叶わなかった。その代わり修士を早期終了させる事で話がまとまった。

その後、無事に入試試験を突破し北陸先端科学技術大学院大学先端知識科学系東京サテライト校へと進学を果たしたのだ。勤務先にも報告し仕事と勉学の両立をする事に対して温かい応援を頂いた。

2019年 入学後の運命

入学式は石川県能美市で行われた。自分は東京サテライトの学生なので北陸先端大の本校舎に行く機会は中々無いと思っていたが、先生へのご挨拶と本校舎を一度は訪れてみたいという思いがあり実際に訪ねたのだ。

先生の挨拶が終わると先生直々に本校の中を案内して下さった。様々な高度な研究機器が揃っているのは流石としか言い様がなかった。

その中で一番素晴らしいと思ったのはJAIST FAB いわゆるものづくりセンターだ。そこには、高性能な3Dプリンタや加工機が多くあった。24時間365日この工房を使用可能であり、実験や作品を制作するには良い環境であり、何よりもフリーダムな精神と心意気にとても感銘を受けたのだ。ものづくりは自由な発想で時間に縛られずに作り続ける事が大切だと考えていたので正しく絶好の場所であった。

ここでも運命は付きまとう事になる。ものづくりセンターの担当の方の師匠は、私が前の大学で研究員をしていた時の上席の一人だった。確かにJAISTに過去在籍していた事は経歴で知っていたが、巡り巡って関係性がここでもある事に世間の世の中の狭さを再認識した。自分が決して諦めなければ行き着く場所へ人は行けるのだと確信した瞬間であった。
この世界で本気でやろう。そして、怖がらずに前に進もうと覚悟を持てた。

   24時間365日利用可能なJAIST FAB フリーダム精神に感謝!

幸い、JAISTには素晴らしいものづくりの設備や仲間や友人もできて周囲の人々や環境に恵まれたと思う。
もし、2009年学部を終了して直ぐJAISTへ来ても、多分私は直ぐに辞めていた可能性は高い。10年もの年月が掛ったが、今本当にやりたいことがハッキリとしている状態で入学できたからこそ諦めずに研究をやり通そうという覚悟がある。現在はサテライト校舎なので実験室も無いしサテライトの利用時間も限られる。しかし、自分の力で切り開けば実験場所も環境もどうにでもするつもりだ。
そして、一緒に研究や作品を作ってくれる仲間や周囲で支えて下さる方々に敬意と感謝しながら一緒になって面白い事を仕掛けて行けたらと思います。

最後に 失敗は失敗ではない

失敗を失敗だと言うにはとても勇気が要る。でもそれは自分自身の事だから無理に変えられる事はない。行動すればするほど、道はぐじゃぐじゃするモノだ。壁にぶつかる事は決して恥ずべきことではない。だから、失敗だと言える自分がだんだんと楽になっていった。

もし、この記事を読んで居る方の中で過去に研究室を辞めてしまったり大学院を辞めてしまった人たちに伝えたい

あながた生きていて諦めなければ、チャンスが巡ってくる。人間何度だってやり直しはできる。失敗しても何度だって這い上がれば良いし何度もチャレンジすれば良い。失敗から学ぶ事は多い。
大切なのは諦めないで行動し続けること。過去を卑下するのではなく、時間が掛っても無駄ではなく糧や学びにする事。それは君にしかない教科書や本にない学びなのです。
たった一人の先生に否定さえても、きっとあなたを見てくれる友人や他の先生方がいるはずです。今居なくても理解してくれる人たちに会う様にすれば良いです。
だから、何も怖くはありません。例え別な道に進んだとしても今できる目の前の事を思いっきりやる事なのです。

この8年あまりの自分の歴史を一気に振り返ったポストでしたが、こうやって言語化することで心の中にあったモヤモヤが消え、よりハッキリとクリアなり、メディアアートと感情の可視化のエンターテイメント応用という研究の道を突き進みます。

最後に 背骨のがんで亡くなった友人へ
天国に居る君は、今でもどこかで私のことを見守ってくれているのかな?
君が導いて金沢や石川にまたご縁を運んでくれたのかな?
君がなろうとした研究者に君が背中を押して私を導いているのでしょうか?
君の言葉に導かれて、変で奇抜でも決して諦めないで突き進んでいるよ。
だから、どうか私が次のフェーズに進むまで天国から見守って時には導いてね。

ここまでお読み頂きありがとうございました。


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