不登校からスタートした小学校がおわり、次へ
1。卒業
小学校入学式は大雨大風だったのを今でも覚えている。あれからもう6年が経った。本当にいろんなことがあった。
友だちつくってきて、我が家は放課後は児童館のように賑やかだった。
これで、大丈夫、と思った。
でも5月末に突然、学校へ行けなくなった娘。
なかなか、かけあわない学校との対話。
付き添ってみると、あーこれは、きついわなぁと思った私は、無理していかなくていいと腹を括った。
でも娘は違った。門まで。でも足が止まる。1分、3分、5分、10分、と。
私はどこまでこの子はここで葛藤するのか、じっとじっとまった。果てしなく長い時間に感じた。
でも、一回、切り替えようと、娘に「一回家に戻ろう」というと、小さくうなづき、家に向かう、が、また止まり、道路にかがみこむ。
まじか。。。どんだけ、頑張り屋なんだろう。と、私も一緒にかがんでじっとそばにいた。
年度末になると、なぜか不思議なことがこども同士の中でおきて、ふっと教室にはいれたりもした。
2年生は、廊下まで。教室の前で止まる。
見つけてくれた友だちが、椅子を持ってきてくれたりした。
それでも娘は動けない。
この年度末も、不思議なことがおきた。リレーをみていたら、担任の先生が、「走ろ」と。勢いにまかせて娘はついていき、まさかのアンカー。
やる気なし、得意でない娘はとろとろと走っていた。
ゴールすると、いつもだまって私たち親子をみていた学年主任の先生が拍手をし、子どもたちから拍手が湧いた。素敵な光景は今でも覚えている。
そうやって、だんだんと、教室や教室の外に居場所ができた。
2.居場所をつくってくれた大人たち
小学校にはクラスに教室に入れないお子さんが各学年に必ずいた。娘が5年生の時、校長先生も変わっていたが、コロナ禍での長期の休校明けにおおらく不登校がぐっと増えたのだろう。悲痛な保護者の声をうけとめてくれた校長先生と娘が1年生の時からずっと味方でいてくださった養護教諭の先生と級外の先生方が別室ルームを作ってくれていた。
娘は学校へいけば教室で過ごせるようにはなってはいたが、そこの部屋を利用している友だちに「怖いから一緒にいてほしい」といわれ、そこに娘の居場所が新たにできた。
場所ができると、人が増える。
人が増えると、教室に入れない理由もいろいろ、学年もいろいろで、そこ場所はストレスだらけの場所になっていった。
広い教室へ移動。支援級のクラスの子どもたちが使っている多目的教室を使わせていただき、支援級の授業にも参加できるようにと。
ところがやっぱりトラブルが起きる。
さわぎたい、遊びたい、低学年と静かにしたい高学年。
娘はその間をなんとかしようと戦っていた。時には早退してきたりもしたので、「別にいいけど、残された仲間がこまってるんじゃない?」というと、「行ってくる!」とまた学校へ行く娘。なんかたくましい不登校児だねって思いながら。
2階にある教室まで養護教諭の先生とパテーションを運び、空間を少し整えたと言っていた。
次に、6年生の担任の先生が急に入院。そこについていた先生は担任へで、大人の目がなくなった。
とうとう養護教諭に先生から「お母さんだからいうんだけど」と、その苦悩が語られた。そこで私は職場(大学)の教育学部の学生さんでボランティアにはいってくれないかを考えた。が、教育学部に知り合いに先生はいないわけではないが、うーんと思い、一人声をかけたた、コロナ禍でこちらから積極的に呼びかけられないと。うーんと思っていた時に、ちょっとしたトラブルで偶然お会いした先生がいて、「教育学部の先生ですか」と、勢いで聞いたら、その方がそうだというので事情を伝えたら、なーんと娘の学校の支援級とパイプがある先生だった。
その先生はよく支援級にいっていたので別室ルームもみてきてくださり学生にも声をかけてくださった。
そこからのルートかはわかならいが、学生ボランティアがきた!
保護者もどうぞということになり、大人の目がいくつもできた。
でも、来年度、校長先生は退職、養護教諭の先生はおそらく異動。となるとこの部屋の存続が危うい。そこで保護者が任意で集まって陳情書を学校と協力して作成し、任意でかける人は手紙も書き、部屋の存続と人の配置をお願いした。
結果、存続し、二部屋にわけ、先生もそれぞれつき、その部屋は守られ、かつ、場が育ち始めた。
3。娘の6年目
娘は6年生になって、午前中頑張って起きても体が動かず戦っていたが、なんとか遅刻でも学校へ足を運ぶ日が増え、教室で過ごす日も増えた。
時々別室ルームにいる仲間が心配で見に行ったりしたようだ。
するとそこにいた一年生が娘を慕って、ついて歩いてくると。
校長先生がそのお子さんの面倒は見ていたが、校長は忙しい役職。そういう時娘は校長先生に頼まれてその子に勉強を教えたりしていたそうだ。
教室にいくと、これが本当に不思議で行けなかった1年生のとき、娘の力になっていた男女が同じクラスで、たいてい席が同じで、修学旅行のグループもそのメンバーで。その中の一人の男子は1年生の時娘と給食当番のペアさんだった。だから娘がいけない時ずっと給食当番してくれていた。そのことを彼は「でも、相手の配膳しなくて良かったから、ラッキーだった」なんて言ってくれていたそうである。もう一人の男子は2年生の時も一緒で、どうして学校こないの?と質問責めに娘がなったときに「1年生の時にね、病気して入院しててね」と嘘をついてくれた。それが6年生では男子ボケ、娘ツッコミでクラスを楽しませていたようである。
なんだかんだ3組で始まり3組で終わり、このメンバーで卒業。
4。卒業式へ
みんなと卒業式に出れるかわからなかったので、娘から「ママ。袴とか着るの?」と言われて、「あ、え?」となり、「袴着たい?」と聞くと、別にーという。友だちはブレザーでいくという。だからなら買いに行こうかというが、うーんって娘は止まるので、まぁギリギリまでほっとこうと思った。
卒業式は名前を呼ばれたら「はい」がいえないよなぁ。そして一人一言言いながら6年間の思い出をみんなで言葉にしていくのも、できないよなぁ。
どうするのかしら??
ただ、当日は行くというので、私が若い頃のきていたワンピースと正装用のボレロっぽいジャケットを出すと、それでいくという。
式がスタート。返事はできなかった(練習ではできたそうだ)けど、立派に壇上で校長先生から証書をもらっていた。
ひとり一言はパス。それでもそこの場に入れるだけで立派だった。
式が終わると、大雨の入学式とは違って、いいお天気で暖かい日だった。
グランドに出て記念撮影後、クラスで集まって、先生へのお礼やらの時間後。
ん?娘がいないなと思いながら私はグランドのど真ん中でみんなをみていた。
ブランコに乗る子、ジャングルジムのてっぺんに登る子、あーそれぞれが思いのつまった大事な場所があったんだなぁと思いながらみていた。
で、ボケ役の男子発見、その近くにいるのがお母様とおもい、走って初めましてですが息子さんには本当に娘が助けられてっていうと、いつも楽しそうに話してくれてて、でもいま親離れなのか、ぎゅってしたいのに、させてくれなくて、なんて話をしていた。
そして娘がみえると。あんたどんだけ友だちいるんじゃ???ってくらい写真とってーとろーって常に誰かに囲まれていた。
最後は、その男子と、???ツーショット???
しかもそれを多くの子どもと大人が囲んでいる??
なんだ?あれ?
しかも二人の距離が、ビミョーで
どうやらいつメンでとろうってなったときに、「まずは二人でしょ」といわれ、流れにまかせたらあーなったと。
その写真の顔が、二人とも本当に穏やかで優しい顔をしていた。
あーーーーいい時間を過ごしてたんだぁって。
そのあともまたいない。
別室ルームの先生に呼ばれていたらしい。別室ルームの後輩が寄せ書きを用意してくれていた。娘は初代別室ルームのリーダーなんだなぁって。
そして一番学校に行かなかった娘が、一番最後に、あのくぐれなかった青門を友だちに囲まれてくぐって学校を去ってった。
5。本当に最後は離任式
卒業式のあと小学校は異動が新聞に載る。娘の3年のとき新任で担任だった先生はこの小学校で4年勤め異動。がんばってほしい。とても素敵な先生にめきめき成長していった。
もちろん娘はその先生に手紙を書いた。それを離任式の前日までに学校へ届けると先生に届くので、学校へ。担任の先生にあった娘はちょっと重たい友だちとの関係に困っていたので相談していた。
翌日が離任式で卒業したみんなも再会。
娘が帰ってきて、「ママ。あいつがね、黙って私の机をパンパンパンパンって叩いて黙ってさっていったんだけど」と。
えーーーーーかっこいいーーーーーーと私は思ったが娘は??だったらしい。
それはさーーーー中学校一緒にがんばるぞ!じゃーん。
春休みは娘は不安と戦い、私のそばで黙々と勉強したり、家族でカラオケいったりして過ごしていた。
そして4月7日中学校へ