リモートワークは製氷器をいったん失うことかもしれない。
わたしたちが普段口にする「会社」という言葉には、ふたつの意味がある。コミュニティとしての“会社”と、場所としての“会社”だ。「会社に勤める」というのは前者で、「会社に行く」というのは後者の場合が多いと思う。
そこでリモートワークの話だ。
わたしの所属する広告制作会社は、コロナがきっかけで全面リモートワークに舵を切った。個人的にはその恩恵だけで一記事書けてしまうほど恩恵を受けていて、正直なところ、今の職種を続ける限り(コピーライター)毎日出勤する必要はまったくないと言い切ってしまえる。
でも、たまに、なんだか切ない気持ちになるのだ。この気持ちは卒業するときのあれに似ている。退屈な授業とか、思春期のいざこざとか、決して毎日が「キラキラ輝いて」なんかいなかったのに、卒業を目前にすると急にすべてがキラキラ輝いて見える、あれ。これから先、今以上にたのしい日々は訪れないんじゃないか、今以上のともだちはできないんじゃないか、と思ってしまう、あれ。(もちろんこんな風に感じない人もいるという前提で)
それはなぜか。自分なりに考えて気づいたのは、場所としての“会社”が「集まることで自動的に一体感をつくってくれていた」からだと思う。その機能を突然、コロナの波がさらっていったものだから、急にぽつんと心もとない気持ちになっているのだ。
これはなんだか製氷器に似ている。製氷器は、水・カルピス・ジュース、それからたとえ醤油であっても、どんな液体も、ある一定の型に保ってくれる。それがある日突然、製氷器を失ったらどうなるだろう。氷になっている液体は、コロンとかわいく転がり出てくるだろう。でも氷になっていなかった液体は?それはもう、ザバーっとこぼれて、ああどうしよう・・・なのだ。
製氷器は、もういらない。
わたしの感じていた切なさの正体。それはきっと、何をもってコミュニティとしての"会社"とつながっていくのかを、やや模索しているからなのだろう。もう少し、リーダー職という立場をふまえていうと、何をもって会社のみんなをつなげていくのだろう、ということ。
それはたぶん会社ごとに違っていて、もしかすると社員一人ひとりも少しずつ違ってくるのかもしれない。
ただ目指すところは、製氷器なんかいらなくなること。いろんな味の液体のままで、時には一緒に、ときにはそれぞれのフィールドで充実すること。型になんかはめる必要がなくなること。
雨がすぎたら、夏がくる。
どんな夏になるかは誰にもわからない。
ただこういうことを書いておこうと思った自分は、もしかすると手がかりを少し、見つけかけているのかもしれない。
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